水底ノ碧

01 

 外はどんなに天気が荒れようと、水に守られた内側は落ち着いていたりすることもある。ただ光が射さなければ当然辺りは暗く、肌を滑る水の冷たさが増してしまうのだが。
「今日はもう駄目かもしれないな…」
 頭上に広がるものは柔らかな光で包まれた空などではなく、果てしなく広がる重たい水面。肌に触れる潮の質から海流の流れが変わり始めたことに気付き表情は曇る。
「もう……誰も気付かない…」
 男の呟いた言葉は、気泡となって上へ上へと昇っていき弾けて消えた。

 船上はとても退屈な場所だと思う。海の上よりは寧ろ陸の方が好きだ。
 そんな事を考えながら小さく吐く溜息。
「つまらない?」
「ん?」
 声のする方へ顔を向けると一人の男が目の前に立ち、夜の水面を眺めていた男へと微笑みかけていた。
「パーティーの事だよ」
 そう言って男が指した先にあるものは、楽しそうに談笑を交わす人々の姿だ。
「そんなことはねぇよ」
 言葉ではそう答えても、この空気は余り好みではない。つまらないと思っていることが態度として出てしまっていたことに小さく舌打ちを零した後、商売用の笑みに切り替え場を取り繕ってはみたが、あまり効果は無いようである。
「無理はしないでも大丈夫。正直、僕も退屈だと思っていたところだから」
 男は困ったように眉を下げると隣に座っても良いかと聞いてきた。それに小さく頷きながら男が座る為のスペースを作る。それに対して、彼は安心したように表情を崩し胸を撫で下ろした。
「初めまして。僕はサーシャ。サーシャ・リロフ。君は?」
「トニだ。トニ・ペイナド」
 パーティー会場の隅で静かに自己紹介を交わす二人。きらびやかな雰囲気に満たされた空間で、二人の居る空間だけが空気が異なっている。
「えーっと…トニって呼んでいいかな?」
 サーシャと名乗った青年は、この地域では少し珍しい見た目をしている。緑がかった深い黒の髪は夜に溶け込むようなほどしなやかなストレートで、風が吹く度さらさらと揺れる。日に焼けた健康的な肌は元々真っ白という訳では無さそうだ。その肌の色を持つ人間としては滅多に見ることのないゴールドの瞳をしていた。どうやら彼は、純粋な血族の人間というわけではなく、他民族の血が混ざっているということだろう。背もその肌を持つ人種に比べると随分高い。
 そんな彼は、返事を待つことなく言葉を続ける。
「貴方は何処から来たの?」
「ベレルトンだ」
 サーシャに問いかけられたトニという男はというと、一見すると本で描かれている貴族というような外見をしていた。ふわりとしたアッシュグレージュの髪に白い肌。双眸は深いアイスブルー。ただ、貴族にしてはしっかりと付いた筋肉と余り品がよいとは言いにくい態度から、彼が階級持ちの人間なのかどうかは怪しく感じられる。
 そんなトニはというと、名前の呼び方などどうでも良いと素直に頷き聞かれた問いに答えた後、細く息を吐き出した。
「ベレルトン…と言えば北の大国バスゼルに隣接する小国だよね? 随分遠い場所から来てるんだ」
 言われた地名に一人納得したようにサーシャは頷く。余り有名な場所ではない国の名前を知っていることから考えると、どうやら彼は地理に強い方の人間らしい。もしかしたら同業者なのだろうか? 少し芽生えた興味から、今度はトニがサーシャへと質問を投げる。
「お前は?」
「え?」
 余り他人に興味を持つことをしない男が珍しく気になった人間。トニに突然話しかけられた、サーシャは驚いた表情で彼を見る。
「お前は何処から来たんだ?」
「僕? 僕はジウだよ。主人の護衛でこっちに来てるんだ」
「主人?」
「うん。彼女なんだけどね」
 そう言ってサーシャが指し示した先に立つのは一人の女性の姿があった。
 背丈はそれほど高くない彼女の艶のある長い黒髪は特徴的で、とても目を惹く。この地域では滅多に見れる事のない髪質から、彼女が東側の人間だと言う事が分かった。少女の面影を残しながらも女性へと変わりつつあるといったところの年頃の様で、猫のようなアーモンドの瞳が印象的な可愛らしい姿。しかしながら芯の強い凛とした空気を纏う彼女は東の大陸に位置するジウという大国の皇女で、なかなかのやり手として名が知られている。名を小碧と言う。
李小碧リー・シャオビー…」
「知ってるのかい?」
 サーシャがが意外だと言いたげな口調で言葉を投げかける。
「知っているも何も、有名だろう? 彼女は。色んな意味で…な」
 彼女のビジネスのやり方は容赦がない。そのため、黒い噂も色々と付きまとう。だが確実に結果を残すことの出来る手腕は、どの国の人間からも高く評価されていた。皇女という肩書きだけではなく、ビジネスパーソンとしても一流。そんな人物なのだ。知らない人間の方が少ないだろう。
「そっかぁ……やっぱりそうだよね」
 この男は一体どういう風に自分の主人のことを見ているのだろう。ふとそんなことが気になったが、ソレを聞くのは野暮だろうと思い、トニは瞼を伏せその考えを振り払う。
「そうだ。君は王子様なの?」
 話題を変えたいのだろうか。突然違う話を降られ、トニは困ったような表情を浮かべた。
「んー……一応、皇族ってことにはなるんだろうな」
 肩書きなんて正直重苦しだけ。面倒くさそうにそう答えてやると、サーシャは少し寂しそうに目を伏せ小さく笑った。
「階級の有る人なんだね、トニは。僕なんかと全然違う。ちょっと羨ましいかな」
 何がそれほど羨ましいのだろうとトニは思う。階級持ちと言っても正妻の子供じゃない自分の立場は非常に曖昧なものだ。そんなものを羨ましいと言われても、正直反応に困ってしまうだけなのだがと言いかけて止めた言葉。
「皇族っていう事はさ、僕が居る場所とは全然違うものなんだろうね」
 身分が違う事が寂しいんだと。そう言いたげに笑う彼に対して抱いた違和感。それが何なのか気になり見ると、サーシャの腕には大小様々な傷が刻まれている事に気付た。それは随分と古いものも有れば新しいものもあるようだ。
「……お前……ただの従者というわけでは無いのか? もしかして……暗殺者とかだったりしてな」
「え?」
 問われた言葉にサーシャの表情が一瞬だけ凍る。それをトニは見逃さなかった。
 冗談で言った何気ない一言ではあったが、まさか本当にそうだとは思いもしなかった。ただ、その態度から、その疑問に対しての答えは嫌でも分かってしまう。
「えーっと…」
「隠さなくても良いぜ。お前、暗殺者なのか? 違うなら違うと言えば良い」
 もう一度だけ問われた言葉。自分の事を真っ直ぐに見る強い瞳に視線を逸らすことが出来ず、サーシャは何とか誤魔化しの言葉を考えてみる。しかし、演じると言うことを余り得意としない彼にとって、上手い言い訳というものは簡単に思いつくものでも無い。やがて諦めたように左右に首を振ると、観念して両手を上げ表情を崩した。
「参ったな…その通りだよ」
 人の良さそうな笑みを浮かべる穏やかな男。それがサーシャに対して抱く印象だったのだが、彼は意外にも人を殺すことを生業としているのだという。
「…………」
 本来ならば、此処で嫌悪を表す人間が多いのだろう。生きる世界が違うのだ。相容れない世界に理解を示せという事は実に難しい。だがしかし、それが何だと言うのだろうか。トニにとって、サーシャの生業など大した問題ではない。傍に居て面倒くさいと感じなければ、彼がどんな仕事に就いていても関係は無かった。
「そうか」
 たった一度だけ頷くとサーシャからゆっくりと視線を離し、未だ終わる気配の無いパーティーの方へと移す。
「気持ち悪いよね。やっぱり人殺しが隣に居るなんて……嫌な気分だろう?」
 その態度をどう思ったのだろう。サーシャの声は随分と小さく、波の音に掻き消されそうな程か細かった。
「別に。気にしないぜ、そんなこと」
「え?」
 諦めて顔を伏せていたサーシャは、トニの口から零れた意外な言葉に顔を上げ目を見開く。
「どんな仕事をしていても、俺は全く気にしねぇよ。だって、そうしなければ生きていけなかったってだけだろ? ただそれだけにしか過ぎなねぇことじゃん」
 普通に生きていると、他者の命を奪わずに生きると言うことは難しい。同族殺しはしないと声を挙げて豪語する人間だって、他の生物の命を戴き動いている。命を繋ぐ事で生を得るのだとすれば、それは何と残酷な事なのだろうか。
「人殺しは良くないって言うのは否定はしねぇけどもさ、人殺しの方がよっぽど命の重みを自覚していると言うこともあるくらいだしな。そう言う意味では無自覚な者の方がよっぽど質が悪いと俺は思ってるんだが」
 皇族の立場に居るはずの男が呟いた何気ない一言。それは余りにも予想外でサーシャは思わず言葉を失ってしまう。
「そんなことよりも、俺としては風向きが変わったことの方が気になんだよなぁ」
「え?」
 言われて空を仰げばいつの間にか黒い雲が辺りを覆い始めている。月はすっかり姿を消してしまっていた。
「……嵐に……なるのかな?」
「判んねぇ。どうだろうなぁ」
 海の上の事は良く知らない。トニは小さく首を振り俯くとそのまま黙り込んでしまった。

 冷たい水を手で掴もうと何度も掌を広げては閉じる…そんな行動を繰り返すが、定まる形のないそれは指の間を擦り抜けて呆気なく手の中から逃げ出してしまう。
「あっ…」
 男はその無意味な行動を止め耳を澄ませた。
「セイレーン……」
 水を微かに揺らす透明な歌声は、セイレーン達の奏でる歌。
「嵐が……来る……」
 そう呟いた時だった。僅かな月明かりだけで辛うじて明るさを保っていた世界が突然黒く染まる。何事かと顔を上げると一隻の大きな船の姿を見つけた。
「あれは……」
 その船が誰の持ち物で何処へ向かうのかなど男には判らない。だが、このままだと船は嵐に巻き込まれると言うことだけは判る。セイレーンの歌声に導かれてやってきたのなら、乗員は誰一人として助からないだろう。胸騒ぎがする。
「……放っておけばいいのにな…」
 結局は何処までもお節介。男は掛けていた岩から腰を上げると、ゆっくりと船を目指して泳ぎだした。

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