水底ノ碧

02 

 少しずつ変化していく空模様。 肌を撫でる風は先ほどよりも随分と冷たく、少しずつ高くなり始めた波が平衡感覚を狂わせていく。余り海に詳しいというわけでは無いが、漂い始める不穏な空気に感じた不安。風が海面を撫でる度、海上に留まる船の傾きが大きくなっていることに、この場に居る何人の人間が気付いているのだろうか。
「なぁ、歌が聞こえないか?」
 風の音に紛れるようにして聞こえてきたのは、オーケストラが演奏している豪華な旋律とは異なる音色。それに始めに気が付いたのはトニの方だった。決して美しいとは言えない波音に混ざるようにして聞こえるかすかな音に思わず寄せるのは眉間の皺だ。
「え? 歌?」
「そうだ。ほら……」
 トニに言われた言葉を確かめるようにサーシャも耳を澄ませる。不鮮明で聞き取りにくい音ではあったが、トニの言うとおり確かに風に乗って甘いメロディが鼓膜へと伝わってくることに驚いた後、瞼を伏せより鮮明な音階を拾うべく意識を音へと向ける。
「本当だ」
 一度それを知覚すると、なんとも甘い歌にサーシャの顔が自然と綻んだ。
「とても綺麗な歌だね」
「……そうか? ……俺はさっきから、鳥肌が立って仕方ねぇんだが……」
 聞き取りにくい音を取り零さないようにと耳を傾けるサーシャに対して、トニは嫌そうに表情を歪め舌打ちを零す。その歌に肯定的なサーシャとは異なり、波の立てる音に混ざって聞こえる歌にトニが感じ取ったのは不快感で、雑音の混ざる旋律に言いようのない不安を掻き立てられてしまうのは気のせいでは無いだろう。その証拠に、肌触りの良いシャツから伸びた白い腕に立つのは鳥肌がはっきりと確認できる。おまけに体を震わせるほどの悪寒がトニを遅う。嫌な予感がする。何が起こっているのか判らないながらも、それを聞いてはいけないという事だけは辛うじて判った。
 果たしてこの歌の正体は何なのだろうか。上手く情報が引き出せるとは思わなかったが、この状況を説明するのに尤も適していると思われる事例がないかと記憶を探すと、一つの事柄に辿り着きトニは勢いよく顔を上げる。
「サーシャっ、この歌は…っ!!?」
 聞いてはいけない。そう言おうとしたときだった。
「きゃああああああああっっっっ!!」
 波のうねりが船を襲い、バランスが傾いた船体が大きく左右に揺れ始めた。
「何!?」
 何が起こったのか判らず戸惑う乗客達。所々から悲鳴が上がり始める。楽しかった宴は突然の終わりを告られる。優雅だった気品客達は、蜘蛛の子を散らすように動き逃げ惑う。そんな乗客の声を耳にしながら、トニとサーシャは手近な手すりに捕まり体が流れていかないように固定すると、状況を確認すべく視線を巡らせた。
「何が起こったの!?」
「判らない! だが、船の動きがおかしいことだけは判る!」
 言い終わると同時に突然鳴り響く爆発音。その直後、船全体が大きく左に傾いた。
「一体何が!?」
 音の発生源は二人が居る甲板よりもずっと下の方から聞こえてきたようだ。手すりを掴み身を乗り出すと、船の船尾に近い場所から煙が上がっているのが確認できる。
「……拙いな……」
 どうして良いのかなんて判らない。だが、体は無意識に動き出してしまっていた。
 身に纏っていた上着は動くのに邪魔になるので脱ぎ捨て、人の波をかいくぐりながら目指すのはコンパス甲板へと昇るための階段だ。うねりが強くなる波のせいで、足下は覚束ない。普段踏み慣れている地面とは異なる感覚に何度か足がもつれそうになるが、そこはなんとか持ち堪えやり過ごすしつつ、一歩ずつ前へと足を進める。先に駆けだしたトニの後を追いかけるようにしてサーシャが続く。そうやって漸く全体が見える高い場所に出てみれば、其処には予想外の光景が広がっていた。
「何だよ…これ……」
 暗い闇を照らす焔。少しずつ広がる紅は熱を伴いあらゆる物を黒煙で塗り替えていく。あれだけ優雅だった船体は、燃え広がる炎により少しずつ崩壊し始めているようだ。その状況に出たのは乾いた笑いで、水分を失い乾ききった喉を引き攣らせた。
「一体……何故……こんな……」
 目の前で繰り広げられる惨劇を嘲笑うようにして響いている小さな歌声。澄んだメロディがまるで空気に溶けこみ、骨に直接響くようにして鼓膜へと届く。余りにも想定外の出来事に頭が上手く働かず、ぼんやりと霞がかっていく思考。目に見えない何かに捉えられる感覚からか、脂汗が滲み肌を滑るようにして流れ落ちた。
「うわぁぁぁぁっっっ!!!」
 どこからともなく聞こえてきた絶叫。次の瞬間、再び爆発音が響く。直後に空へと伸びる火柱と、闇を更に濃くするかのように広がっていく黒煙。
「っっ!!」
 音が引き金になったのか、今まで朦朧とし始めていた意識が現実に引き戻され、トニは思い切り咳き込んだ。どうやら呼吸をすることすら忘れてしまっていたようで、一気に肺へとなだれ込む酸素で胸が痛む。二、三頭を振って思考を切り替えるとざっと周囲を見渡し確認する状況。
「どういう事だと思う? トニ……」
 ずっと隣に居たのだろうか。傍に立つサーシャが震える声で問い掛けてきた。
「この船に何が起こっているのかは判んねぇけど、今の状況が良くない事だけは判んぜ。このままだと確実に、この船は沈むだろうな」
 どんなに思考を巡らせ考えても何故このような状況に陥っているのか理解することは難しいだろう。何もかもが唐突すぎだ。ただ、何となくだが先程から聞こえてくる歌が妙に気にはなっている。
「あっ…雨…」
 ぽつり。またぽつり。小さな雨粒が甲板に落ち足下を濡らす。
「嵐が来るぞ!!」
 船乗り達の大声が船中に響き渡ったのはそれから直ぐのことだった。

 水の中は相変わらず静寂に包まれたままではあったが、海上の様子はそうではないようだ。その証拠に、先程まで暗かった海面が妙に明るく染まってしまっている。
「まさか!?」
 ゆっくりと泳いでいた速度を速めると、男は一気に海面まで上昇し水から顔を出す。勢いよく外に出たことで一気に肺へと流れ込んでくる空気。
「………っ!!」
 勢いをつけすぎてしまったせいか、上手く呼吸が出来ず引き攣るような痛みを訴える胸に思わず、顔を顰めながら盛大に咳き込んでしまった。
「ゲホッ、ゲホ……ゲホ!! 何時もと呼吸法が異なるから肺が痛てぇ!」
 波に身を任せながら痛みを訴える胸に手を当て整える呼吸。浅い呼吸から徐々に深い呼吸へと繋げ、漸く鼻と口で息をすることに慣れてきたところで、男は涙を拭い顔を上げた。
「……えーと……状況は……」
 少し離れた場所に大きな一隻の帆船が浮かんでいる。だがそれは優雅に水面を漂うという訳ではなく、その船体に似つかわしくない朱に彩られ不安定に揺れていた。
「燃えている?」
 男が言葉を口にしたと同時に空から小さな雨粒が落ちてきて水面を叩き始めた。気のせいか、風も更に強まっているようだ。
「……拙いな……嵐も本格的になりそうだぞ」
 風が変わる。徐々に強くなる雨足。波に揺られながら男は自分がどうするべきかを考える。
「あの大きさからすると、かなりの人数が船の中に居そうだな……此処から陸までは……」
 辺りを見回し現在地が何処かを確認しようとしたところで男は表情を歪めた。
「そうか。星が……」
 空に雲が無ければ星の位置から現在地を割り出すことは可能だろう。しかし残念なことに頼りの星は分厚い雨雲に隠され一つも確認ができない。これではこの船の位置が掴めない。
「この海域だと潮の流れはこっから向こうに抜けるんだっけか? なら……一番近い陸地は西の方か」
 こうなったら自分の勘だけが頼りだと。何とかして上手く船を誘導できないものかと、男は思考を巡らせる。だが、ゆっくり答えを探している余裕なんてものは無さそうだった。燃え続ける巨大な船体から、再び大きな爆発音が鳴り響き、少しずつ不自然に傾き始めている姿が視界に飛び込んでくる。
「何!?」
 爆発音の直後から火柱と黒煙の勢いが強まる。と、同時に空から落ち海面を叩く雨粒が、更に勢いを増し、視界を濁らせてしまった。
「おかしい……こんなのは見たことがない…」
 相反する二つの要素が強く自己を主張しあう。その勢いは衰える気配を見せない。さらに不安を煽るように吹き始めた風が、より大きな波のうねりを生み出し船を飲み込もうと動き始めた。只でさえ不安定だった船体が風に煽られ、波に抗うことができないとでも言うように翻弄され始める。
「きゃぁぁぁぁ!!!!」
 何処からともなく上がる悲鳴。数秒置いて何かが落ちる音が耳に届く。
「誰かが落ちたのか!?」
 男は音のした方へと慌てて泳ぎ出す。暫く泳ぐと海面を狂ったように叩きながら沈んでいく一人の女性の姿を見つけた。
「…くそっ!!」
 水に対して激しく抵抗を続ければ、余計に水に囚われ自由を奪われる。そうなると自力で海面へと昇ることは困難になってしまうだろう。男は急いで女性に近づくと、その体をしっかりと抱え女性の顔を海面へと出してやる。
「おい! 大丈夫か!!」
「お願い! 助けて!!」
 抱きかかえた女性は大分混乱しているらしい。男に必死にしがみつき「助けて」という言葉をひたすら繰り返していた。
「判った! 判ったから少し落ち着け!!」
 力一杯しがみつかれると上手く身動きが取れないと。男はゆっくりと女性の背中を撫でながら気を落ち着かせるべく声を掛け続ける。暫くして混乱が収まってきたのか女性の腕の力が抜け、拘束が緩んだ。
「落ち着いたか?」
 成るべく優しく問い掛ければ女性は震えながらも素直に頷いた。
「そうか…なら」
 一度女性から目を離し辺りを見回すと数隻の救命ボートが海面に浮かんでいるのが確認できる。
「少し泳ぎにくいかも知れないが頑張ってくれ」
 女性の体を支えるように腰に腕を回し固定するとゆっくりと救命ボートに向かって泳ぎ出す。女性は特に目立った抵抗も見せずに大人しくそれに従った。思ったよりも抵抗が少ないのは非常に助かる。お陰でボートへは割と直ぐに辿り着くことが出来たことに表情を和らげる。
「済まないが、彼女も頼む」
 先にボートに乗り込んでいた乗船スタッフに救出した女の体を渡すと、乗船スタッフは直ぐさま手を差し伸べ女性の腕を引っ張り上げた。
「あっ! はい!」
 成るべく引っ張り上げる男の負担にならないように水の中から彼女の体を押しボートに乗せると男は再び海の方へと視線を向ける。
「他の奴を助けに行く。連れてくるから乗せてくれ」
「あっ! ちょっとアンタ!!」
 スタッフの制止の声は聞かずに、男は再び荒れ狂う波に身を投じた。
 海面へと落ちた遭難者を捜し、見つけたらボートへと託してまた捜索へ戻る。そうやって救出作業を続けること数時間。
「……これで……最後か……?」
 ぐったりと項垂れる老年の男性の体をボートの上に担ぎ上げると男はボートの縁に手を当てて小さく息を吐く。
「えーっと…どうやらその……」
「すいません! 一人足りないみたいです!!」
 全員だろうと言いかけたスタッフの声を若い女性の声が遮った。
「私の姉がまだ……」
「本当か!?」
 男は急いで辺りに視線を配らせる。だがそれらしきものは見あたらない。波に流されてしまったのかと不安になり始めたその時だ。
「コレで最後だ!!」
 別のボートから声が挙がる。声のする方へと視線を向けると、一人の青年が若い女性の体をボートに担ぎ上げようとしている姿が目に入った。
「ほら、坊主。お前も急いでと乗り込め」
 船長らしき男は、そう言って青年に向かって手を差し伸べている。
「ああ」
 荒波から抜け出すために差し出された手を掴もうと伸ばした手。
「あっ!」
 しかし、その手を握るよりも先に大きなうねりが起こり、青年の手が遠くなる。
「坊主!!」
 スタッフは慌てて手を伸ばすが、波が青年の体を攫うのが僅かに早くその指先が伸ばされた手に届くことはなかった。
「拙い!!」
 その光景を男は見逃さなかった。掴んでいたボートの縁から手を離すと、男は最後の生存者の命を助ける為に再び泳ぎ出した。

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