冷たい夏

01 

 その日私は、死霊を見た……

 その年の夏は、妙な感覚だったのを覚えている。
 例年よりも少し肌寒いと感じる気温。もう暦の上では八月だと云うのに、薄手の上着を羽織って漸く、軽く汗ばむといった不思議な感覚だった。
 空は夏のものにしては珍しく、いつもより色が薄く随分と高い。とはいえ、空気に含まれる湿度のせいか肌にまとわりつく湿り気に、多少の不快感を覚え気が滅入る。そんな異様な状態というのに、例年通り響き渡る蝉の声は相変わらずで。その音がこの様な状況に余り似つかわしくないと感じてしまう……そんな夏だった。

 外出しようと思い至った理由は、部屋の整理のためである。
 下宿している部屋は限られた間取りしかなく、ある程度物を溜め込んでしまうと直ぐに手狭になってしまう。そのため、仕方無しにと蔵書の一部を古本屋に持って行く事に決めたのは昼前の事。
 もう読まないと判断した本を数冊。広げた風呂敷に丁寧に包み家を出る。
 驚いたのは建物の外に出た時に感じた気温の差だ。部屋の中の方が冷えていたことに、この時私は始めて気が付いたのだ。

 歩く度に息が上がる原因は、日頃の運動不足のせいだろう。外気が肌寒いと感じるからと羽織った上着。その選択に軽く後悔を覚えつつ、日陰を探すようにして足を進める。じんわりと滲み出る汗はまだ肌を伝って落ちることは無いが、少しずつ感じ始めた渇きのせいで、水分を失った喉が引き攣り痛みを訴える。
 やっとの思いで辿り着いた古本屋。軒を潜れば眠そうに欠伸を零しながら新聞を広げている店主が、顔をこちらに向けるでもなく「いらっしゃい」と声を掛けてくる。
「これ、売りたいんですが」
「ふむ……」
 広げていた新聞を畳んだ後、店主は机の上に置かれた風呂敷を丁寧に開いていく。年代物の丸眼鏡のレンズは少しだけ汚れ曇っているのだが、彼がその事を気に止める気配はない。右手の親指と人差し指で眼鏡の蔓を掴むと、「うーむ」と唸りながら本を手に取りくるくると回す。どうやら、外装に破損や疵が無いかを確認しているようだ。
 暫くすると、今度は表紙を開きページを捲っていく。紙が擦れる音が、ゆったりと時間の流れる店内に響く。念入りに本の状態を調べる店主の検品速度は予想以上に遅く、持ち込んだ本の鑑定が全て終わるまでは今暫く時間を使いそうだった。
 今日は特にこの後の予定を決めている訳でもないため、陳列棚に整理された本を適当に手に取り、それを愉しむ事で時間を潰す事を決めることにする。
「ちょいと、兄さん!」
 あれから既に三冊目。その本をあと十数頁で読み終わるという頃に声を掛けられる。
「あっ。はい」
 持って居た本を閉じ急いで棚に戻すと、私は足早に店主の座るカウンターへと近づいた。
「持って来て貰った本だがね、このくらいの値段でどうだろう?」
 ぱちぱちぱち。乾いた音を立てながら弾かれる算盤。随分と年期の入ったそれは、五珠と一珠が桁の上下を行ったり来たり。梁に触れたかと思えば、直ぐにそこから遠のいていく。それを追うようにして皺の寄った店主の指が何度も何度も往復して漸く止まったところで、持ち込んだ本の合計査定額が提示された。
「状態はとてもいいんだが如何せん、持ち込んだ幾つかの物は量販物でな。値があんまりつけられんのよ」
 少しだけ申し訳なさそうにそう言われてしまうと、値段の交渉もやりにくいと感じるから上手いものだ。
「大丈夫です。それは分かっていますから」
 先手を打たれてしまったことに苦笑を零しつつ、提示された金額に幾つか上乗せしてもらった金を受け取ろうと手を伸ばす。とはいえ、このまま店を後にするのも申し訳ないと感じ、先ほどまで読んでいた本を一冊。買い取り額から差し引いて貰い購入することにする。
「また、おいで」
 この店はなかなかの掘り出し物だと。店主に軽く会釈し礼を言うと、帰路に就くべく店を後にした。

 行きとは異なり身軽になった帰り道。相変わらずこの後の予定など決めていないため、急ぎ家に帰る必要なんてない。疲れるのもなんだと歩く速度は少し緩め。普段は気にも留めないような街並みを眺めながら、行き交う人を観察しつつ足進める。
 大都会に比べ小さいとは言え、店があるのは名が付く町と呼べる場所だ。そのせいか、其処にいる人の格好は何処か垢抜けていてお洒落だった。一方、私はというと、ぼさぼさの頭に皺の寄ったシャツ。草臥れて煤けたスラックスに履き潰してボロボロになった靴。太い黒縁に牛乳瓶の底の様に厚いレンズの眼鏡を掛けている。格好に無頓着なのと金を持たない学生の身分であることから、普段なら気にすることのない外見の格好だったが、改めて他と見比べると、酷く場違いな気がして急に気恥ずかしくなる。
 誰に見られているわけでも無いが周りに失礼な気がして、足が自然と速くなっってしまった。

 人目を避けるようにして表通りを抜け、視界に入った筋道に体を滑り込ませる。表から帰れば早いのは分かっていたが、その場所に自分が居る事が場違いだと感じた瞬間から、ついて回る居心地の悪さ。それに耐えられず遠回りをする選択を選ぶ。無意識にポケットから取り出した懐中時計の針を見て吐いた溜息。一分、一秒でも早く帰りたいと思う自分と、少しでも人目から逃れてひっそりと消えて無くなりたいと願う自分が葛藤を繰り返す。結局勝つのはいつだって後者。実際、脇道に逸れる事を選んだ時点で、帰宅までかかる時間は加算されてしまったのだが、華やかな人間が自信を持ち胸を張って歩くような場所に居るよりは気持ちの面で幾分マシである。
 少し寂れたような雰囲気の漂う筋道には、幾つかの店が建ち並んでいる。古い店構えで情緒を感じる店内では年のいった老年の女性が店番をしており、彼女の前に置かれた商品の横で、飼い猫の三毛が大きな欠伸をした後丸くなっている。また、他の店では店先に簡易な椅子を出して壮年の男性と恰幅の良い女将が話し込んでいたりしていた。狭い空間に漂う空気に混ざるのは、仄かに香る乾物の良い匂い。どことなく懐かしさを感じ、自然と笑みが零れ落ちる。まるで切り取られた記憶のようなその雰囲気に、先ほどまで感じていた焦りも少しずつ薄れていく。反対に、この雰囲気を楽しみながら歩いていると、数軒先に初めて見る古本屋を見つけた。
「……こんな所にも古本屋があるのか」
 先ほど本を処分してきたばかりだと言うのに、思わず店先で止まる足。何だかんだと自分に言い訳を繰り返しながら、店先に飾られている品物の一部を吟味する。
「へぇ。こっちは結構マニア向けな蔵書を取り扱っているんだなぁ」
 つい数十分前に後にした古本屋と違い、普段滅多に見ないタイトルが並ぶ品揃え。それが嬉しくて、つい独り言を呟いてしまう。取り扱っている本の種類は様々で状態もまちまちだが、一般的に流通している書籍よりも、普段手に入らない様なタイトルの方が圧倒的に多い。探していてもなかなか見つからなかったタイトルを見つけてしまうともう駄目で。誘蛾灯に群がる蛾の如く、気が付けば誘われるように店内へと足を運んでしまっていた。
 こぢんまりとした店内には大きな本棚が幾つか並び、その棚は隙間を許さないとでも言うように、ぎっしりと本が詰め込まれていた。
「すごい……」
 その棚を見て出たのは感嘆である。何故なら、殆どの書物が綺麗にカテゴリ分けされていたのだ。
 整列は五十音順に行われているようだったが、タイトル名さえ判れば探すのは容易いのだろうと感じる。試しに以前本屋で見かけたタイトルを思い出し、軽く探してみることにする。
「あった」
 思った通り、目的の本はすんなり見付かった。それどころか、他にも探していた本を数冊見付けてしまう。
「うわぁ……どうしよう……」
 幸か不幸か、丁度良いことに、先程蔵書を売って出来た臨時収入が財布の中には残っている。私は少し考えてから、どうしても欲しい一冊だけを手に取り、店の奥に向かった。

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