冷たい夏

04 

 彼女との話は思った以上に楽しく、時が経つのを忘れてしまう。日が随分と傾いてしまったことにに気が付いたのは、空に薄く空色から茜色に変わり始めたと彼女に告げられたからだ。
「あら。随分、話し込んでしまったようですね」
「どうしてですか?」
「ほら」
 彼女はそう言って空を指さした。指の先を辿る様に顔を上げると、枝葉に囲まれ切り取られた小さな空には、少しずつ夜の気配が忍び寄り始めている。
「本当だ」
「そろそろ帰らないと暗くなってしまいますね」
 互いに顔を見合わせて軽く笑うことで、少しだけ温かくなる空気。
「送っていきましょうか?」
 もう暫くすると明かりが無くなりこの場所は闇に閉ざされてしまうだろう。そんな不安から出した提案は、彼女のためのものなのか、自分のためのものなのか正直判らなかった。
「いいえ。大丈夫です」
 しかし、彼女からその誘いを断られてしまう。忍び寄る夜に感じる不安。彼女は送りは必要無いと。確かにそう言ったものの、この辺りに人気は全く無く、女性が一人で歩くのは危ない雰囲気である。
「ですが……女性が一人では危ないのでは?」
 理由を付けて彼女と居る時間を引き延ばすのは、闇に一人取り残される事が恐ろしいと感じているからかも知れない。
「歩き慣れた道ですから、平気ですよ」
「でも……」
「それに」

『あまり知られたくないんです』

「え?」
 それはか細い声だったが、はっきりとした言葉だった。
「…………」
 私はその言葉に対してどう返答をすれば良いのか判らず、ただ言葉を探してしまう。
 「そうですか」と言って食い下がるのは男として余りにも情けない。だが「矢張り送っていく」と強く言い張るのも、彼女にとって迷惑だと感じられる様な気がして気が引けた。何より意気地が無い男だと彼女に思われるのは辛い。幾ら考えても答えが出ないまま悩んでいると、私のそんな反応に気が付いたのか、彼女が申し訳なさそうに笑い口を開いた。
「実は、色町で働いて居るのです。余り良い仕事とは言えないので、三枝さんには知られたくなかったの」
 言われて「あぁ」と納得した。
「そう言うことでしたか」
 なんてことは無い。彼女はただ一人の女性として会話をすることが出来る私という存在に、己の後ろめたい部分を知られるのが怖かったのだ。
「えぇ。躯を売る仕事なんて、綺麗な稼ぎ方とは言えないでしょう? 男の方になら誰にでも構わず足を開く女なんて可愛く無いもの。だから、知られたくなかったの。ごめんなさいね。余計な気を遣わせてしまって」
 朗らかだったそれは、気が付けば泣きそうな笑顔に変わってしまっている。
 確かに男に春を売る仕事は良い仕事だと思わない人間も多いだろう。しかし、彼女の表情からは躯は売っても心は売れないという、強い決意みたいなものが感じられる。女一人で生きていくためにはこういう方法は一つの手段なのだということは理解出来る。
「……立派、だと思いますよ」
 考え抜いた結果、私が出した答えは立派だと思うことだった。
「…………」
「生きていくのはとても大変なことです。私みたいに、親の脛を囓っている人間より、例え男に躯を売っていたとしても、ぬいさんのように必死に生きている人間の方が余程立派だと思います」
 彼女に告げた言葉は本心からだった。私はぬいという女性を汚れていて汚いと感じるよりも、立派な人間だと強く思う。
「……ありがとうございます」
 震える躯を自分の腕で抱きながら、ぬいが俯く。掠れている声から泣いているのだと判る。私は何も言わずに彼女を優しく抱きしめた。

 彼女の涙が収まったのは、空が完全に茜に染まった頃だった。
 涙を拭った彼女が私の腕から離れて微笑む。行動は衝動的で、相手がお礼を言う為に開いた口を私の唇が塞ぐ。一瞬、驚いて目を見開きはしたが、目立った抵抗は見せず、彼女は私の口付けを素直に受け入れた。
「……すいません」
「いえ」
 何故このような行動に出たのか、自分にもよく判らなかった。彼女の嫌がる素振りの無いことがせめてもの救いである。
「吃驚はしましたけど、嫌ではありませんた」
 恥ずかしそうに笑う彼女は、どこかしら嬉しそうにそう答えてくれる。
「逆に私なんかで良かったのでしょうか? 三枝さんの方にご迷惑が……」
「いいえ。私がしたいと思ったからしてしまったことですから」
 顔を真っ赤に染め慌てながら伝える言い訳。何をこんなに必死になっているのだろうか判らないが、ここで彼女に嫌われてしまいたくない。無意識に私はそんなことを考え、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「貴女のこと、私は好きですよ。その生き方もとても素敵だと思います」
 否定はしない。だから拒まないで欲しい。そう願いながら彼女の顔を盗み見れば、大きく見開いた目が綺麗な弧を描き細くなる。
「良かった」
 その笑顔はとても美しいと。
 多分、私の心はこの笑顔で、完全に彼女に捕らわれてしまっていたのかも知れない。

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