冷たい夏

05 

 彼女は語る。自分達が姉妹が幼い頃親に売られたと姉に教えられたと。
 そこでされた仕打ち、人に頼ることでしか生きていけないと悟った経緯。そして、唯一の身内である姉の死。その後の生活と、今現在の自分自身のことを。
 今まで平凡に生きてきた私にはとても信じられないことばかりだったが、彼女の顔を見ていると何も言えずに黙って頷くしか出来なかった。
「……自分のことを誰かに聞いて貰える日が来るなんて、夢のようです。……もっと早く三枝さんに会いたかったなぁ」
 この時に見せた笑顔は、今日彼が見せた中で一番寂しそうなもので、私は彼が消えてしまいそうな不安に捕らわれる。
「今からでも遅くは無いでしょう? 会おうと思えば何時でも会えますし。そうだ! 私の住んでいる場所を教えておきますよ。何かあったら何時でも尋ねて来て下さい」
 そう言いはしたものの、丁度良い紙が手元に無い。仕方なく買った本の頁を破り、それに連絡先を書いて彼女に手渡す。
「……ありがとう」
 たった一枚の紙切れ。それを大事そうに包み込むと、彼女は再び涙を流した。

「それじゃあ、ここで」
 開けた道まで共に歩いた後、彼女は私の家の方角を指差し道を説明してくれる。
「三枝さんはこの道を真っ直ぐに行けば家に着きます。私は反対なので」
「そうか。気を付けてね」
「はい」
 また合おうと交わす約束。言葉はたった一言だけで、逢瀬の余韻に長らく浸る余裕などなく、私達は二手に別れ歩き出す。

 あれから幾月過ぎたのだろうか。
 季節は変わり、部屋もすっかり元通り本の山へと変わってしまった。
 あの後別れたきり。一度も彼女には会っていない。彼女がこの部屋に尋ねてくることもなく、連絡の一つも来ないまま。偶に町へ足を伸ばしてみても、そこで彼女と違うという偶然もあり得なかった。
 何度か彼女のことを人に聞こうとはしたが、彼女のことは名前と色町で働いていることくらいしか知らない。殆ど彼女に繋がる情報など持ち合わせて居らず、なかなか人に聞く機械が無いまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
「ぬい……」
 冷たい風が流れ込む窓を開け放ち、ぼんやりと外を眺めながら私は呟く。
「もう一度、彼女に会いたいなぁ……」

 再びその場所に訪れようと思ったのは、あの時に見つけた古本屋に立ち寄った帰り道の事だった。
 以前と同じ帰路を歩き、以前見つけた脇道を目で探す。見つけた獣道は相変わらず、それを使う人が居ないせいか荒れ放題で。だが、何となくこの先にぬいが居るような気がして、私は躊躇うこと無くその道に足を踏み入れた。
 一度来た道だ迷うことは無い。そもそもあの場所までは一本道。湿り気を帯びた空き地を抜け、祠の脇を通り墓石の並ぶ場所へと辿り着く。相変わらず他の墓は手入れがされている気はするのに、隅にあるぬいの姉の墓だけは、あの時と同じように荒れてしまっていた。あの時彼女と手向けた花はとうに枯れ果て、雑草が好き放題に伸びて墓石をすっかりかくしてしまっている。
「これじゃあ、お姉さん浮かばれないよなぁ……」
 そっと雑草の束を手に取った時に、墓石に刻まれた掠れた文字が目に入る。
「……え?」
 それは、確かに聞き覚えのある音を持つ文字で。
「……そんな」
 墓石には辛うじて見える程度の彫刻は、掠れて読みにくくはなっているものの「ぬい」と記されることに気付いてしまった。
「それじゃあ……この墓は……」
 頭の中を嫌な考えが過ぎる。だが、幾ら頭で否定しようとも、ぬいという存在が生きているということを立証する事は、私には出来ない。不可能なのだ。
 何故ならわたしは彼女の事を何も知らない。住んでいる場所はおろか、本当に生きているのかどうかさえも。
「ぬい……貴女は一体……」
 頭の中が真っ白になる。
 ただ、今目の前にある事を突き止める勇気など私には無かった。知ってしまえば後戻りは出来なくなるのではないかという恐怖と、知りたくないという我が儘と。
 私はゆっくりと掴んだ雑草から手を離すと、ゆっくりとその場を後にする。

 啜り泣く声に誘われ、現れた男一人。
 一夜の逢瀬は夢か幻か。
 冷めた後の現実に、愛しき者の姿無く、
 ただゆらゆらと草が揺れ、
 朽ちた墓だけ残される。
 真実は闇一つ。

 消えた面影だけが
 全てを知るだろう。

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