シュガー・シュガー

04 

「この本は古本屋で買ったんです」
「ん?」
 突然耳に届いた声に驚いて顔を上げる。相変わらず目の前に座る青年は俯いたまま。だがその言葉はハッキリと音を紡いでいる。
「初めは、何気なく手に取っただけ。でも、気が付けばその世界に引き込まれてしまっていました。時間を忘れるように読み耽っていた自分にとても驚いたくらい、この話は面白かった」
「…………」
 突然伝えられる物語に対する感想。どう反応を返せば良いのか分からず、黙ったまま彼が言葉を続けるのを待つ。
「この本は……どの話も優しいから」
 そこで一度言葉を切って、青年は漸く顔を上げた。
「そして何となく温かい」
「……そうかな?」
 その言葉は、弟と妹以外から直接伝えられた、初めての感想だった。例えそれが世辞でも嬉しいと思ってしまう自分がそこに居る。
「俺、この本が好きです」
「あっ…」
 今まで感情を表に表すことの無かった青年の表情がふと柔らかくなる。
「俺の知らない温かく柔らかい世界が、この中には沢山詰まっているから」
 そのぎこちない笑みが幼い頃の妹と重なって咄嗟に言葉が出てこない。
「……あの……俺、何か可笑しい事を言っていますか?」
「………いいや……そうじゃなくて……」
 辛うじて出した声は酷く掠れていて自然と上がる右手が口元を押さえてしまう。
「泣いているんですか?」
「違う……」
 「違う」。そう言って否定しても込み上げてくる感情は抑えられず、熱くなった目頭に涙が溢れて頬を伝うのを止められない。
「あの……」
「……悪い。でも、ありがとう」
 その言葉は自分でも驚くほど自然に口から零れ出ていた。
「何故?」
「その本を大切にしてくれて……俺達の作った話を気に入ってくれて、ありがとうってことだよ」

『お兄ちゃん達の作るお話大好き!』

 忘れて居た大切な何か。あの頃は単純に、妹の喜ぶ顔が見たくて沢山の物語を創り出した。いつしかそれが稼ぐための手段へとすり替わってしまい、何が書きたいのかが判らなくなってしまっていて。ただ娯楽を量産し金を得ることだけに躍起になっていたことに気が付かなかったんだと。お話を創ることの本当の意味を見失っていたことに漸く気が付いた時、自然と涙がこぼれ落ちることに嬉しくて表情が綻んでしまう。
「俺、思ったことをそのまま言っただけなんですが……」
 目の前に座る男が泣いてしまったことで、青年は困ったように眉を下げ慌て始める。それを片手で制し一度深く息を吐き出した後、手の甲で涙を拭い繕う笑顔。
「その言葉が何よりも嬉しいんだよ。素直な言葉っていうのは、どんなにつぎ込まれた大金よりも価値があるんだ、俺にとってはね」
 もう一度、何も無い状態に戻ってお話を創ってみよう。自分の利益の為ではなく、誰かの笑顔の為に。そう思うと、感じているのに目を背けてしまっていた息苦しさが、嘘みたいに消えて無くなっていく気がして気持ちが軽くなる。
「なぁ、もし良かったら……」
 かけていた眼鏡をそっと外し机の上に。カップの中に半分だけ残った黒い液体で渇いた喉を潤してから、改めて口を開き伝える言葉。
「今度また、その本の中に在るような雰囲気の話を書くから、その時は読んで貰えないかな?」
 目の前には今日出会ったばかりの他人。それなのに何故かそんな事を頼んでしまうのは、始めて貰えた素直な言葉が嬉しかったからに違いない。
「俺が……ですか?」
「ああ」
 青年は少し考えた後、嬉しそうに顔を綻ばせながらこう答えてくれる。
「俺で良ければ、是非読ませてください」
「そうか」
 いつもと同じ昼下がりの店内。向かいの席はいつもとは異なり、空っぽの空間などではなく一人の青年が腰掛けている。名前も知らない彼に気付かされた大切な何か。たった一冊の本が作り出した不思議な縁は、今ゆっくりとその物語を紡ぎ始めた。

 砂糖菓子の様に甘い時間と。
 そこに流れる優しいメロディと。
 この小さな店の小さな空間から、世界中の子供達へと彼の紡いだ優しい物語が届けられるまではあともう少し。
 慌ただしさの過ぎ去った店内には、蕩けるような甘い声を持つ歌手のスローテンポの落ち着いた曲がゆったりと響いていた。

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