サイレン

01 

「なに考えてんだ? アンタ…」
 顔に張り付いた表情は恐怖。
「何も怖がる事はないだろう? 俺はただ、一緒にいて欲しいだけなんだ」
 しかし、寂しそうに微笑む目の前の男が余りにも哀しく見えて、一瞬だけでも気を許してしまいそうになる。
「……寂しい……のか?」
「ああ……」
 罪悪感と言うものがない訳ではない。それでも、「うん。判った」と簡単には受け入れられない事も存在はしている。
「……いいや。無理だよ」
 やっと絞り出した言葉。それはとても小さく、辛うじて相手に伝わる程度の音量。
「何故?」
「恐いんだ。だってそうだろう? アンタが望むもの、全部恐いんだって……」
 捨てられないものが有る。踏み越えられないラインがある。向こう側へ行くのはとても恐ろしいと感じてしまうから勘弁して欲しいのだと。まるで許しを請うようにゆっくりと横に振った首。
「……それで俺が納得するとでも思ったのか?」
「え?」
 突然変わる声色。先程までの穏やかな口調が一瞬にして冷徹なものへと変化する。思わず身体を強張らせ顔を上げれば、無表情の冷たい瞳が真っ直ぐに此方を見つめていた。
「誰のせいでこうなったのか判ってるよな?」
「それは……」
 それはいつまで経っても消える事の無い、互いを縛る呪縛。
「赦すはずが無いだろう?」
 逃げなければ。頭の中で鳴り響く警報音。背筋に走る怖気に怯えた小動物の如く、くるりと踵を返すと同時に、この場から一刻も早く立ち去ろうと無意識に身体は動き出す。
「逃がさないと言っただろう? 何処に行くつもりだ?」
「っっ!?」
 しかし、その逃走劇は一瞬にして終止符が撃たれてしまった。
 鷲づかまれてしまった腕。強い力で後方へと引っ張られバランスを崩した身体が傾く。背中に走る衝撃と衣服を通して感じる冷たい温度。振り返ろうと首を動かしたところで喉元に触れる尖った物が触れる。それが鋭い爪の先だと認識した瞬間、恐怖に支配された身体は全く動かなくなってしまった。
「動くと間違って首の血管切っちまうかもしんねぇぞ」
 耳元で囁かれる声に含まれるのは、楽しそうに笑う声。
「逃がさないよ。だって……」

「俺達は元々一つのモノだったじゃないか」

 相手がそう言い終わると同時に、喉元に鋭い痛みが走る。声にならない悲鳴をあげようと口を開けば、切り裂かれた皮膚から流れ出した紅が、逃げ出すようにして溢れ出てしまう。口元からも溢れ続ける紅は頬を伝い、着ていた白のシャツを染め上げていくに。それに伴うようにして意識が少しずつ遠のき、失われていくのは平衡感覚だ。やがて、自分で制御をすることの叶わなくなった身体は、感じ続ける恐怖に抗う事もできず相手の腕の中へと崩れ落ちてしまった。耳に届く深いな音。それは、未だ溢れ続ける喉元の紅を啜り飲む音。それがやけに大きく響いて気持ちが悪い。生物を構成する要素の一つで最も大きな割合を占める、体内の六十パーセントの水分が凄い勢いで失われていくのが怖い。
「ほうら、捕まえた」
 酸素を求めてだらしなく開いた口。其処に触れた滑る紅は、何よりも生臭くて不快な味がした。

 幾何世紀と時代が移り変わろうが、変化しないものが存在する。
「ふわぁぁぁ……」
 いや。実際は少しずつ変化を続けてはいるのかも知れない。しかし、それ自体が驚くほど緩やかなもので、中々その違いに気が付くことが難しいのだと。記憶の中に在るかつての風景と、今目の前に広がる町並み。すっかり寂れて賑わいを無くしたそこに建つ、最早朽ち果てたと言う表現がとてもよく似合う古めかしいのアパートの一室。窓枠に頬杖を突き、ぼんやりと広がる町の様子を眺めていた男は、退屈そうに大きな欠伸を一つ零す。
「起きていたのか?」
 部屋の奥から姿を現したのは、フォーマルなスーツを着こなした人物。その人は、椅子に座って外の景色を眺める男と瓜二つの姿をしていた。
「起きてたよ」
 窓際の男は一瞬だけ。その人物の方へと視線を向けた後、さほど興味もないと言うように再び、窓の外へと視線を戻す。
「連れないんだな」
「だって、嫌いだもん。アンタのこと」
 かけられた言葉にそう応えてやれば、自分の背後でふっとその人物が笑う気配を感じる。
「……食事どうするんだ?」
 続いて聞こえたのは増えていく数字。それは、背後の人物が、記憶の中にあるものを思い出しながら数を数える声だった。
「要らない」
 その音が聞こえないように、少し大きめな声で拒絶を示す言葉を吐き出す。
「それじゃあ、死んでしまうだろう?」
 一度、背後の気配が遠のいた。顔を向けること無く耳を欹てれば、キッチンの方から聞こえてくる冷蔵庫を開ける音。暫くして床板と擦れる靴音が男の居る部屋へと戻ってきた。
「また何も口にしていないな?」
 責めるような口調。近付く靴音がすぐ後ろで止まると、素早く伸びた白い指が男の顎を掴み無理矢理後ろを向かせる。
「一つも減っていない。日持ちしないんだから、無駄にするな」
 本来なら減っているはずの数字。それが最後に記憶したものと寸分の狂い無く合致したことが気に入らないと。スーツを着た人物は静かな怒りを含んだ口調で責める。
「……嫌いなんだから仕方ないだろう?」
 暫し無言で睨み合う。とは言え、これは何時もの事なのだ。そうやって数分間の無駄な時間を過ごした後、スーツを着た男は諦めたように小さく溜息を吐き捕まえていた顎から手を離した。
「全く。本当に強情なんだから、世話の焼ける」
「……煩せぇ」
 これ以上この人の顔を見ていたくない。視線から逃げるようにして、スーツの男に背けようと顔を動かした瞬間だ。今度は顎ではなく肩を掴まれ、強い力で無理矢理身体ごと後ろを向かされる。
「なにすんっ……」
 抵抗する暇など与えられず、次の瞬間、男は大きく目を見開いた。
「んんっ!?」
 口元を塞ぐ真っ白な手。そこから生暖かい粘着質な錆の味が口内へと流れ込む。それが嫌で必死に抗うのだが、抵抗が出来たのは初めの頃だけ。空腹を訴える腹が理性をねじ伏せ食欲を満たすべく与えられたそれを貪欲に貪ってしまう。一滴も零さないようにしっかりと重ねて唾液と絡んだそれを喉を鳴らして飲み干していると、突然身体が引き剥がされ供給源を失ってしまった。
「無理矢理こうしてやると素直に食事をするのに、何故自分では摂ろうとしないんだ、お前は」
 呆れた声。しかし、中途半端に満たされた食欲は、まだ飢えを満たしたいと目の前の相手が与えるものを欲しがってしまう。その反応に満足したのだろう。スーツの男は意地悪そうに口角を吊り上げた後、愛おしそうに男を腕の中へと閉じ込め柔らかな髪をゆっくりと撫でた。
「……………っっ!?」
「まぁいいか。手間が掛かった方が可愛いものだし、世話を焼くのは寧ろ嫌いじゃない」
 急激に冷える頭。冷静さを取り戻した瞬間、自分の事を抱きしめ微笑みかける男の存在を、勢いよく突き飛ばす。唇に触れた冷たさが気持ち悪い。その感覚を消したくて必死に手の甲で擦り事実を消し去ろうと藻掻くが、膝を付いた目の前の男はそれすらも楽しいと言うように満足げに表情を崩すと、肩を振るわせて笑いを堪えた。
「…………糞が……」
「言葉が悪いぞ」
 そうは言っても相手は上機嫌だ。満足そうに笑みを浮かべながら立ち上がり、服に付いた埃を払った後、スーツの男は持っていた輸血バッグに歯を立てる。
「俺の血でしか生きられないっていうのも、有る意味では嬉しいかもしれないな」
 減っていくパックの中の紅。少しずつ小さくなる度、目の前の男の喉が上下に動く。
「……最低だ、畜生」
 今日も又、同じように繰り返される生。それがもう、ずっと長い間続き変わらないに、窓際の男は苦渋の表情を浮かべて項垂れた。
「まぁいいさ。それじゃあ、俺は少し出掛けてくるけど、腹が減ったのならストックが冷蔵庫の中に入ってるから」
 「じゃあな」。会話は自体はこれでお終い。無機質な音が響き足音が遠ざかると、部屋を支配し始めるは耳が痛くなるほどの沈黙。この部屋と外界を繋ぐ玄関の扉が閉まる音が聞こえてしまえば、完全にこの寂しい空間にある存在は自分一人だけになってしまう。
「…………酷でぇよ」
 膝の上で握られる拳。力を込めると腕が痙攣したように震動を繰り返す。
「…………こんなってねぇよ……」
 弱々しく震えた声が男だけが残るこの場所に微かに響いた。

 夜の方が調子は良い。
 風が冷たく感じ始めた季節の変わり目。落ち着いたデザインの高価なコートを羽織ると、男はくっと口角を吊り上げる。一度静かに伏せた瞼。それをゆっくりと開くと文明の創り出す人工的な光の海に身を投じる。
 実のところ、男はあまり大きな変化を好まない。だが、少しずつ、確かに変わっていく事を感じられる何かを見るのは、純粋に楽しいとも感じている。最も、世の中が大きく変わったところで、男と男の大切に思っているものだけは変わることがないのだが。
 自然と口から零れ出るメロディは随分と懐かしいものだ。一昔前に流行った流行歌を聞く機会も、今は随分と減ってしまっている。そんな鼻歌が零れ出る程に本日の男は機嫌が良い。街頭の明かりを横目で見ながら大通りに出ると、通りを走っていたタクシーを一台捕まえて乗り込む。
「お客さん、どちらまで?」
 行き先を伝える言葉は簡易なもの。それを受け取った運転手は、タクシーはゆっくりと発進させた。
「パーティですか?」
「ええ」
 ガラス越しに流れる景色。昔乗っていた馬車に比べると、この乗り物から感じられる震動は格段に少ない。快適とすら思える鉄の塊の中で目を細めながら、男は静かに口を開いて言葉を紡ぐ。
「声をね、かけて頂いたんですよ」
「へぇ」
 他愛ない会話。普段こういったものを好む客が少ないのだろうか。運転手は嫌がること無く耳を傾け相槌を返してくれる。
「美しいご婦人に、是非ご一緒に如何です? とね」
「へぇ」
 運転手はこの言葉をどう受け取ったのだろう。だが、男はそんなことなど気にも留める様子は無かった。相変わらず視線は窓の外を流れる景色だけを見つめている。
「今日は月が綺麗な夜ですね」
「え?」
「見えませんか? ほら、金色で丸い月が彼処に」
 丁度捕まった赤信号。サイドブレーキを引いた運転手が身を乗り出しフロント硝子越しの夜空を見上げる。
「ああ、本当だ」
「ね」
 それは特に意味もない他愛ない言葉のやりとりだった。
 男の言うとおり、金色の大きな月はどこまでも、どこまでもこの鉄の塊を追ってくる。街灯の光など必要無いだろうとでも言うように。
 そうこうしている内にタクシーは目的地に辿り着いてしまったようだ。男はマネークリップからチップを取り出すと、スマートに精算を終え開かれた扉から外へと足を下ろす。
「ありがとう」
 自動に閉まるドア。此処まで己を運んでくれた運転手に軽い会釈をした後、男はゆっくりと歩き出した。

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