サイレン

02 

 薄暗い室内。柔らかな夜風が流れ込む度、レースのカーテンが踊るように揺れている。
 いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。随分と冷えてしまった体温。無意識に震える身体を抱きかかえるように小さくなったと同時に、零れる大きなくしゃみ。
「……うぅ……」
 ゆっくりと覚醒する意識。今まで眠りの淵を彷徨っていた男は漸く目を覚ました。
「……ここは…」
 持たれ掛かっていた窓枠から身を起こし辺りを見回しながら男は呟く。
「……リビング、か」
 その景色は見覚えがあった。それもそのはずで、この部屋は何年も前から男が存在する事を許された小さな世界。灯されたライトは煌々と光を放ち部屋を明るく照らし出しているというのに、この空間には色が無い。くすんだいか墨のような煤けた部屋。これが夢の世界から引き戻された男の現実の全て。
 一度大きく背を伸ばすと、関節は小気味の良い音を立てて鳴る。身体の力を抜きながら溜息を吐き再び窓枠に肘を付けると、男は濃紺に染まった夜空を眺めた。
「……俺のせい……なんかな…やっぱ…」
 辿る記憶は随分と昔のものだ。
「何でこうなっちまったんだろう……」
 懐かしむ遠い記憶。その中に有る人は、今はもう誰も居なくなってしまった。
 たった一人を除けば。
 どれくらいの時間が流れ去ったのだろうと考えることはもうしていない。カレンダーを数える事を辞めてから随分と経った。だから、今が何年で、どういった時代なのかなんて、正確なことは男には判らない。ただ、こうやって朽ちるのを待っているような建物の窓から外を眺める回数も、もう両の手では数え切れないほど多くなってしまっている事だけは辛うじて判る程度。
「いつまで俺を縛り続けるんだよ……アンタ……」
 呟いたのは造りの良く似た顔を持つもう一人の自分の名。
「いつまで俺は罰を受け続ければ良いんだろうな……」
 随分と白くなってしまった自分の手を月明かりに翳しながら、男は寂しそうに笑う。
「あの時、あんなことをしなければ……」

 何もこの結果を願った訳じゃ無い。それは兄にしろ弟にしろ同じ事だった。
 ただ、状況が良く無かった。何故なら、それはタイミングの問題だったからだ。

 そう何度も言い訳を繰り返しながら自分の罪を誤魔化している男の名はデリックと言う。デリックは一人、いつ明けるとも分からない夜明けを待ちながら窓の外を眺め続けている。それは、半ば色んな事を諦めながら只一人、自分を縛り付ける双子の兄の存在を待ち続けるため。そんな彼の日常は、長い間惰性的に繰り返されていた。
 もちろん当初は抵抗もあった。そうやって縛られたくなくて、兄の元から逃げ出したこともある。だが、必ず最後は見つけ出されて引き戻されてしまう。何度も何度も同じ事を繰り返し、そのうちその行動を起こすことすら疲れてしまった彼は、結局は自分を縛る人物の願う通り、彼の傍に有り続ける事を受け入れてしまった。
 その関係は実に異常だと彼は思う。しかし、互いに寄り添える存在が必要なんだと、彼の兄はそう言って笑うのだ。正直その感覚はデリックにには判らなかったが、首を横に振れば己を縛る鎖の重さが増えてしまいそうな気がして、自分の気持ちに蓋をし押し込める。
「俺はこんな風になってまで生きていたいと願ったことはねぇんだよ」
 何故この異常な状態が彼に課せられてしまっているのかと言えば、彼の特異体質に関係していた。
 彼の身体……正確には、彼と兄の身体は元の生物という形から著しく変化してしまっていた。変化してしまった身体では、もう正確な鼓動を刻む事は出来ない。ただ入れ物だけが其処に在るだけで、それを動かす動力というものが時と共に狂ってしまっている状態だった。必要最小限の生命維持活動というものは、通常の時を生きる生物とは遙かに時限が違っており、いつまでも経ってもそれに果てが見えない事に絶望すら覚える。窓の外で流れる時間と、窓の中に流れる時間と。本来ならとても近い距離ですら、隔たれた世界では恐ろしく遠いと感じ、泣き出したくなることも少なくは無い。
 そう。彼らは所謂【怪物】と呼ばれるものたちである。
「……はぁ」
 「繰り返される溜息の数だけ幸せというものは逃げていくんだ」と、昔、誰かが言った気がする。それでも、「溜息を吐かなければ幸せになれるだなんて、そんなの嘘だ」とデリックは思う。何もすることが無くただ時間だけが流れていのは退屈で仕方ない。デリックは窓枠に持たれ掛かると、階下に広がる石畳の歩道を眺める。
「つまんねぇの」
 この終わりの見えない時間に、早く終わりが来て欲しい。そう願いながらぼんやりと通りを眺めていると、再び忍び寄る微睡み。それに抗う事など出来ず、彼の瞼はゆっくりと降りていく。幾ら何でも眠りすぎだろうと、薄れゆく意識の中で思いはしたが、それを咎める人間なんていうものは此処には存在しない。好きなだけ惰眠を貪ればいいのだと自分を納得させ、考えることを放棄する。そう。時間は無限にあるのだからそれで良いんだ、と。
「ワンッ!」
「?」
 しかし、船をこぎ出した意識は直ぐに現実へと引き戻されてしまった。
「ワンッ!」
 気のせいなどでは無い。階下から聞こえる犬の声。
「ワンッ!」
 こんな時間だ。煩い。そう思いつつ、デリックは再び腕枕の中へと顔を埋め瞼を伏せる。
「ワンッ、ワンッ!」
 しかし、来訪者は諦めることなく、意識を手放そうとしているデリックに声をかけ続ける。その声は止む気配が無く、次第に周りの建物に反響し音の波紋を広げていく。それが耳障りで苛立たしい。鬱陶しい声に耐えきれなくなったデリックは、観念して勢いよく顔を持ち上げると不機嫌に来訪者を睨みつけた。
「んだよっ、煩いな!」
 近所迷惑なんて考えない。自分でも驚くほど大きな声で犬相手に怒鳴りつける。
『何時までそうしているつもりだい? 君は』
「え?」
 確かに聞こえるくぐもった声。それは不鮮明な雑音で奇妙な音ではあったが、はっきりと人の言葉だと言う事は判った。それを喋る一匹の犬が視線の先にちょこんと座りこちらを見ている。
「……寝ぼけてんのかな? 俺………犬が人語喋ってるとか有り得ねぇ…」
 状況が上手く理解出来ない。常識ではあり得ない事が目の前で起こっている。それがどう言うことなのか分からずデリックは混乱してしまう。
『寝ぼけて等居ないさ。君の意識はちゃんと覚醒している。そして、私が君たちの話すような言語を話していることも事実だ』
 しかし、そんなデリックの様子を楽しむように、犬はそう言って小首を傾げた後尻尾を軽く二、三振ってみせた。
「是は夢だろう?」
 デリックは確認するように犬にそう問う。
『いいや。現実だね』
 出来る事なら夢であって欲しい。そう願っても犬は切り捨てるように、デリックの言葉をあっさり否定した。
『脳が覚醒して知覚しているのならば是は現実だ。最も、君が全てを否定したいと願うので有れば、この現実は否定されるという可能性も考慮しなくてはならなくはなるがね』
 心なしか犬の表情が笑っている様に見える。まるで試されているかのような雰囲気に、デリックは嫌そうに眉間に皺を寄せ視線を逸らした。
「頭の痛い話は苦手。もう現実でいいや。で、何?」
『ふむ。面白いことを言うのだな、君は』
 デリックの返した返答が気に入ったものだったのだろう。嬉しそうに顔を歪めた犬は、はち切れんばかりに尻尾を振って見せた。見てくれは随分不細工なその犬は、育ちも体格も宜しくないように見える。それなりに、感情表現が素直なせいで、愛嬌があるように見えてくるから不思議だとデリックは自然と表情を和らげる。
「で、そのワンちゃんが俺に何の用だよ?」
 相手は現実だと言うが、これだけ大きな音を出していても周りが騒ぎ出す気配が無い以上、本当に現実なのかどうかは分からない。そんなことは些細なことだと考えることを止めれば、少しだけ湧いてくる興味。どうせ特にすることはないのだ。暇つぶしに僅かばかりの会話でもと、デリックは目の前に座る犬に話しかけることにする。
『否何。君が退屈そうに垂れていたので、ついつい声を掛けてしまっただけに過ぎない。ただそれだけの理由だ』
「あっそ」
 ここ何年も兄以外と会話をしてこなかったせいで、会話の糸口が見つけられない。自分の返した一言で、呆気なく終わってしまう会話。元々、兄から逃げることを諦めたデリックは、引きこもりとしか言えない生活を長い間続けている。その為、手持ちの話題というものが殆ど無いのだ。俗世の事なんて知らないし、普段脳味噌を活性化させ物事を考える事もしない。暇さえ有れば寝ているかぼんやり窓から外を眺めるだけの生活の中でたった一つ出来ることがあるとすれば、窓の外を行き交う人間を観察する事。只それだけだった。
「悪いんだが、俺と会話しても特に大して面白くねぇと思うぜ?」
 何か面白い話でも聞けるのかと期待するだけ馬鹿な話。結局、言葉を交わすことが難しい時点で楽しい会話など成立するはずがない。
『時間が勿体ないと思ったことは無いのかね?』
 残念だが、話題がないのなら、はいさようなら。そう思って腕枕に再び顔を埋めたところで再び犬が話しかけてきた。
「無いね。何せ、時間は無限にあるんだから」
 今度は顔を上げることなく言葉だけで答える。
『いいや。それは違う。何事に於いても必ず終わりはあるものだ。この世界に無限なんてものは存在しない』
 どういう事だ? と顔を上げた瞬間、しまったと彼は思った。
 こちらを真っ直ぐに見ている犬が挑発的な目でデリックを見ると、赤い舌で舌なめずりをしながら言葉を続ける。
『止まっていると感じているのは、君が諦めてしまっているからじゃないのか? 君が自分で、自分の時を止めてしまっているにしか過ぎないのに』
「な……に……?」
 感じた違和感に滲み出る汗。
『現に、君の鼓動は完全に停止してしまったわけではないだろう? 君の身体は変質してしまったのかも知れないが、君の生命が完全に終わってしまったわけではないんだ。君が望めば時間は進む。君が諦めれば時間は止まる。元に戻る方法を探さず諦めるから、君はいつまで経っても止まった時間から先に進めないのさ』
 少しずつ早くなる呼吸。僅かばかり跳ねる心臓が止まってしまった身体の時を動かそうと藻掻き始める。
「元に戻る方法があるのか!?」
 勢いよく椅子から立ち上がり窓から身を乗り出すと、デリックは叫ぶように犬に問い掛けた。
『さあな。判らないな』
 しかし、欲しい答えは得られなかった。「判らない」と返された瞬間、上がりかけた体温が急速に冷えていくのを感じ、浮いた腰は再び椅子へと引き戻される。
「それじゃあ……」
 絶望の言葉を吐くのは何度目だろうと。諦めを呟き欠けた瞬間、犬がその言葉を遮った。
『だが、無いと決まったわけではないだろう? 有るのか無いのかと問われると正直どちらとも言えないと言うのが正確な答えだろうな。この世には全てのモノがあり、また同時に全てのモノが無いんだ。それを有るのか無いのかを判断するのは判断を下す本人であり、その現象ではないよ』
 其処で一度言葉を切った犬は大きな声で一声鳴く。
『どうするかを決めるのは私ではない。君自身だ。さて、君はどうしたい? どうありたいと願う?』
 今までそのことを解かれることは無かった。改めて言われた「どうしたいのか」という問題提起。それに対しての答えは、ずっとデリックの中に在り続けている。
「人に……戻りたい…」
 言葉にすることが出来ず、押し込めて燻り続けていた答え。諦めるという選択肢を選んだ時点で、手に入らないと手放してしまった可能性。
『そうか。ならば行動するがいい』
 人の言葉を話す犬が、誰もくれなかった可能性の扉を開く鍵をこちらに投げて寄越す。
「でも、それをあの人は許してくれない」
 しかし、それを掴みたいと手を伸ばしかけたところで、デリックは一度動きを止めた。
『何故?』
「俺があの人を……ウォーレンを変えてしまったから」
 この歪な関係。逃げようと思えば逃げられた小さな箱庭から逃げられなかったのは、自分に固執する相手に対して負い目があったからだ。嫌だ、止めろと本気で抵抗が出来ないのも、傍を離れたいと願いながら存在を手放せなでいることも、全て兄という存在にに対しての負い目があったせい。それが自分に対して正直になることにブレーキをかけてしまう。
「あの人は怒るんだ。俺があの人から離れていくことを。寂しいから……そうしないとあの人自身が壊れてしまうから……だから……」
 これ以上、傷つけたくない。苦しんで欲しくない。結局はその存在に甘えていたいと願う心が常に決断を鈍らせてしまう。
『ならば、何時までも其処にいて今まで通り後悔を重ねながら自由になりたいと願い外を見る生活を続けるのかい? 兄に対して素直になれず、感情を表現できずに癇癪を起こすと言うことを繰り返すつもりか?』
「煩いな! お前には関係ないだろう!?」
 言われなくとも判っている! そう吐き捨てるように言葉を遮断するが、言われた言葉は鋭い刃となり暴かれたくない自分の本音を、責めるように抉り続ける。
『君が動き出すことで何か変わるかも知れないと言う可能性を、君は自ら無視をして流してしまおうというんだね? そうやって引き籠もって訪れない終焉を切望し続けるんのか?』
 挑発される。乗せられてはいけない。それでも、売り言葉に買い言葉。相手のペースに乗せられ、吐き出したくないと目をそらした鬱憤が言葉となって吐き出されてしまう。
「それじゃあ、一体どうしろって言うんだよ!! 俺にどうしろって言いたいんだ! お前!!」
 強く窓枠を叩きながら叫ぶように上げた怒号。
『だから動き出せばいいと』
 それに対して穏やかな声でそう答えると、犬は甘えるように鳴きながら尻尾を振り笑ってみせた。
「……動き……だす……?」
『そうさ。可能性の扉を開けるのは選択する自分自身だ。未来は可能性の集合体。何をどう組み合わせるのかによって如何様にも形を変えていける。その中には君の止まってしまった時間を進める方法や、兄を救う方法だって隠されているのかも知れない。何故君が生きているのか。その意味を探し出してみると良い』
 気が付けば手の中に在る違和感。握られた指をゆっくり開くと、そこには小さな鍵が一つある。
「…………」
『さあ、どうした? まだ迷いがあるのかい?』
 この鍵がなんなのか、説明されなくても何故か分かる。しかしデリックは決断が出来なかった。今まで過ごしてきた長い時間が、その一歩を踏み出すことに躊躇いを持たせてしまう。
『まあいい。君の時間は無限にあるんだったな。ゆっくり考えると良いさ』
 もう興味は失せた。これ以上は無駄だと言いたげに、犬は背を向けけ歩き出す。
「あっ、おい!」
『じゃあな』
 遠ざかる小さな後ろ姿。それを引き留めようと無意識に手が伸びた事に驚き、デリックは目を見開いた。
「まっ……」
 喉まで出掛かる言葉。しかしそれは音となり吐き出されることは無かった。
 持ち上げた右手をゆっくりと戻しながらデリックは考える。あの犬を引き留めたからどうなるのだろうと。もう一度だけ視線を巡らせ犬の姿を探す。暫くすると彼は周りの闇と溶けて姿を消してしまうのだろう。自分の元から去っていくその後ろ姿を、デリックは黙って見続けた。

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