サイレン

03 

 耳に届いたサイレン。気が付けば視界が闇に覆われている。
「うぅ……ん……」
 ゆっくりと瞼を開き身体を起こすと軽い頭痛に襲われた。
「ゆ……め……?」
 奇妙な夢を見ていた気がする。だが、内容がはっきりとしない。ぼんやりとした意識の中、デリックは再び閉じようと動く瞼を擦りながら椅子に座り直す。
「頭が痛てぇ……」
 小さく鼻を動かし嗅ぐのは大気の匂い。大分薄れたとは言え、日中通りに溜まった排気ガスは路面を未だ漂っているようで。そこに含まれる怖気を感じる香りを探し、僅かばかり窓から乗り出す身体。
「まだ、大丈夫」
 意識が覚醒するにつれ取り戻されていく感覚。その香りは部屋に残された残り香のみで、まだ新しいものは無い。どうやら、この建物には戻ってきては居ないようだ。それを理解したことで得られる安心から、無意識に胸を撫で下ろす。
「……腹……減ったなぁ……」
 床板と擦れ音を立てる椅子。持ち上げてから動かせと、後で怒られるかなぁなんて。そんな風に思ったりするのは、床に傷が付くのを嫌がる兄のせいだ。ゆっくりと立ち上がると直ぐに襲われたのは目眩で。ふらつく足でキッチンに向かい、真っ白な冷蔵庫の前に立ち扉を開く。
「…………」
 冷気を漂わせる白い箱。その中に几帳面に陳列されている物は、真っ赤な色の塊だった。本来ならば様々な食材や調味料、飲料などで満たされている筈の空間には、異様に感じる物体以外、何一つ存在してはしない。その光景が異常だと。普通の生活で考えると、こんな形で見る事はあり得ない無い色の正体は、医療用輸血パックの束である。
「……はぁ」
 小さな溜息を一つ。デリックは、冷蔵庫に手を突っ込み、適当にその中の一つを手に取ってラベルを見た。
「ミランダ・マクスウェル。二十五歳、B型……」
 誰の名前が書かれていても特に大差はない。身近にあったから選んだパックにはミランダという女性の名前が記されている。どうやらこの血液は彼女のものらしい。
「見た目はどれもこれも変わらないのに、わざわざラベルを貼る意味なんて、あるのかよ」
 無意識に吐き出した悪態は、伝えたい相手に届かないまま空気と混ざり消えていく。乾いた笑いを零した後、喉を鳴らして唾を呑み込んだ。確かに感じているのは飢餓感だ。それが「目の前にある栄養分を補給せよ!」と脳に訴えていることは頭では分かっている。空腹を満たしたい。この光景が非現実的なものだと理性がブレーキをかけるのに、身体はそれに逆らい自然に動いてしまう。冷たいビニル越しに感じる弾力。誘われるようにそれを口元へと持ち上げる手。
「っっ!!」
 唇に触れる冷たさ。その刺激で理性が引き戻され、デリックは顔を顰めながら慌ててバッグを引き剥がした。
 ……自分は今、何を……しようとししていた?
 そんなことは考えなくても判るだろう? 自分の中の悪魔が耳元で囁く。答えは簡単。今、手に持っている物を飲もうとしていたのだ、と。
「……違う……ちが……ちがう……」
 軽く頭を振って取った行動を否定しようと藻掻きはするが、結局、生命を維持するための欲求を満たす事を、己の身体は否定しない。どんなに意思で抗おうが、震える手が自然と口元へ輸血バッグを運んでしまう。「嫌だ、駄目だ」と考えながら、薄く口を開くのを止められない。開かれたそこから覗くのは牙へと変化した犬歯で。それを弾力のあるビニル部分に突き立てれば、滑らかな表面に付いた傷から閉じ込められた血液が溢れ出した。
 口の中に広がる生臭さ。バックの中身を貪るように啜る。顔も知らない女性の血液が、飲みにくさを伴いながら食道を通り胃を満たす。暫く何も考えずにそれを飲み耽っていると、突然強い嘔吐感が襲って来た。
「うぐっ…」
 慌ててシンクに駆け寄り身を乗り出す。大きく開いた口から酷い音を立てて、今接種したばかりの食料が次々に吐き出されていく。何度も何度も嘔吐きながら胃の中が空っぽになるまで吐き続ける時間が続く。何度嘔吐いても吐き足りない。こみ上げる嘔吐物に酸が混ざり始め、内側を焼く度痛みを伴うことに涙が浮かんで来た。持っていた輸血バッグからは残った血が溢れ出し、シンクや床を紅く染め上げていく。気持ちが悪い。美味しくない。こんな物、本当に食べなければ生きていけないのだろうか。何度も何度も繰り返される自問。
「………はぁ……はぁ……」
 右手の中に有った握りつぶされた輸血バッグをシンクに放り込み蛇口を捻って水を出す。透明な液体が排水溝へと吸い込まれていくのをただ呆然と眺めていたデリックは、はっと我に返ると、急いで口の中にある生臭い鉄錆の匂いを洗い流した。
「………ふぅ………ぁ……」
 膝に力が入らない。シンクに持たれ掛かるようにしていた身体が、重力に引っ張られるようにして床へと崩れ落ちていく。
「……無理なんだよ………やっぱり……俺には……無理なんだ……ウォーレン……」
 『これを飲まなきゃ死んじまうって言ってるだろう?』。困った様に笑う兄の顔。それが目に浮かんでくるのが苛立たしく感じ噛んだ唇。
「何回やっても無理なんだって……どうすりゃいいんだよ……………」
 いつも食事をしないことを怒られるのが、辛いと感じていることを理解して欲しいと。こうやって与えられる食べ物を吐き出す度、デリックは苦しそうに叫ぶ。それを食べる事は好き嫌いの問題ではなく、身体がそれを食べる事を受け付けない。だから食欲を満たしたいと願っても、それを叶えることは難しいのだと。
 自分の生を保つためには、それしか口にすることが出来ないんだと。何度兄に解かれたとしても、デリックにはその味に慣れることが出来ず結局、全てこうやって吐き出してしまうのだ。こればかりは、ウォーレンの居ない時に何度も何度も試してみたが、一度たりとも上手く行ったことは無く結果は変わらなかった。
「……アンタみたいにはなれねぇんだよ……助けてよ……誰か……」
 シンクの縁を握りしめた指先が白くなって震えている。情けなく啜り泣くデリックの声は、流れゆく水の音に掻き消され、誰の耳にも届くことは無かった。

 社交界と言うところは、いつになっても目に痛い。ウォーレンは作り笑いの仮面の下でそんな悪態を吐き、煌びやかな光景を眺めている。
「楽しんでもらえまして?」
「え? ええ、まあ。それなりには」
 配られたシャンパンに口を付けながら営業用の笑顔で応対すれば、声を掛けてきた女性は満足そうに頷いた。
「あの時は助かりましたわ。どうもありがとう」
「いいえ。女性に優しくするのは、紳士として当たり前の事ですから」
 豪勢なシャンデリアに照らされた大ホールには、実に様々な人種がひしめいていた。このパーティが一体何の意味を持っているのか何てことはウォーレンには判らない。誘われたからただこの場所に居る。理由なんてそんなものだ。
 ウォーレンが欲しいと望むものは、コネクションとライフラインの供給源。実に強かに自分という物を使い立ち回る術は、たった一人の肉親を守る為だけに身に付けたスキルである。
「……早く帰りてぇな」
 優雅に流れるクラシックにそろそろ飽きが入ってきた頃合い。退屈を持て余したウォーレンは、静かにその場を離れバルコニーに移動し夜風を楽しむ。星の煌めく濃紺には、一際美しく輝く月が浮かんでいる。その淡く冷たい光を受けてウォーレンは妖艶な笑みを浮かべた。
「デリック、怒っているだろうな」
 何気なく呟いた言葉。しかし、その顔に哀愁の色は全く無く、寧ろ楽しそうに目を細めてほくそ笑んですらいる。
「でも駄目だ。逃がさない」
 狂っている。その自覚はもうずっと前からあった。だが、己の欲を満たしたいと願う心に歯止めをかける事は出来やしない。
「実はな……こうなってしまったこと、結構嬉しかったりするんだぜ、俺」
 くつくつと声を殺して笑いながら辿る古い記憶。ウォーレンを人から化け物に変えたのは、面識の無い血色の悪い男。それは親と呼ばれる青白い顔をした吸血鬼で、その男道で倒れているのを見つけたのは、彼が手放そうとしないデリック、その人だった。

 その日はデリックが町に出る日だったと記憶している。
 ウォーレンはというと、朝から父親の手伝いをし、漸く一息が付いたと言う頃だ。
『どうしようっ!!』
 勢いよく駆けてくる馬の蹄の音。それが近づき一際大きな声で嘶いた後、慌ただしい足音と勢いよく開かれる扉の音が室内に響いた。
『怪我をして倒れてる人が居るんだ!!』
 血相を変えて家の中に飛び込んできたのは一人のデリックで。息を切らして必死に人が倒れている事を叫び辺りを見回す。何事かと顔を出したのは、その男と良く似た姿をした兄のウォーレンである。
『一体どうしたんだ?』
 カップの中で揺れる琥珀色の液体を揺らしながら顔を出したウォーレンに、駆け込んできたデリックはしがみつき口を開く。
『が、崖の下に人が倒れてる……どうしよう……死んじゃってるかも……』
 その様子からただ事では無い事だけは分かるが、詳細が伝わらない。それはデリックも分かっているのだろう。未だ混乱する頭で、必死に事の状況を説明しようと口を動かし兄に縋り付く。
『道を歩いていたら、崖の上から人が……人が降ってきたんだ!! 直ぐ目の前を人が! ドサって音がして、何が起こったのか判らなくて……』
 突然起こった非現実。それに意識が付いていかず、上手く説明出来ないとデリックは何度も首を横に振る。
『良いから落ち着け! デリック! しっかりするんだ!!』
 両側から肩を叩き、落ち着くようにとウォーレンは声を張り上げた。それに驚いたデリックが、動きを止め目を見開き顔を上げる。
『あ………ぁ悪い……気が動転して……た……』
『構わねぇよ。で、何が有ったんだ?』
 何度か深呼吸をさせ気を落ち着かせてから求める説明。素直にその指示に従ったデリックは、辿々しい口調で、今起こったことを話し始めた。

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