籠の中の悪夢

02 

 目の前に居る相手……そう。彼女は、失ってしまった共通の存在である兄の恋人だった女性である。
 清楚で控えめな印象のその人は、何もかも完璧な出来の良い兄ととてもお似合いで。両親からも歓迎され、思い描く幸せのパズルにピタリと嵌まるほど違和感の無い人だった。
 そんな彼らの居る場所はとても眩しと感じる所で、自分の居る場所まで届かない眩しさに常に感じていた嫌気に顔を歪めたのも少なくは無い。抱く劣等感がどこまでも深く濃いものに変化している事を自覚して以来、少しずつ距離を取り、余り関わりを持たないようにしていた。
 そんなもんだから兄の恋人という事以外、彼女の事を詳しくは知らない。知ろうとしなかったのだ。
 正直に言えば、彼らがどこで何をしていようと興味を持ったことは無い。自分には関係無い事だったし、興味を持ってしまうと距離を詰められてしまう事に警戒を持っていたからだろう。
 そのせいで、兄が結婚を考えていると母親から聞かされたときも感心を持たなかったし、結納や式の日取りを知らされても欠席する理由を探して参加することから逃げてしまっていた。

 彼らにとってこの先に待つ未来は輝かしいものだったのだろう。
 しかし、現実はそうはならなかった。

 その未来図が砕け散ったのは本当に偶然の出来事で。
 作られた物語の世界では当たり前に起こるとしても、それが現実として我が身に降りかかるなんて考えたことは無い。そんな予想外の出来事だったのだ。

 兄の訃報を耳にしたとき、どこまでも実感が湧かなかった。
 それは葬儀の際、棺の中で横たわる兄の遺体を見た時も変わる事は無く、どこまでも現実味に欠け夢を見ているのかと錯覚するほどである。
 それが悲しみから来ている感覚では無い事だけは確かだったが、だからといって何かしら感情が芽生えるとかそう言うことも無く。ただ、それがこの場所から無くなったことに思考が追いつかない。そんな感じだった。
 もう動くことの無い空っぽの入れ物。エンバーミングを施されたそれは、見た目はまるで眠っているかのように生きた時と同じ状態のままだ。しかし、着せられた死に装束と、囲まれるように敷き詰められた花。それが閉じられるともう二度と見ることの出来ない蓋をもつ箱が、普段の生活に必要の無いもので。それがこの箱の中で眠る相手がもう生物として動く事をしない事実を参列者に伝えている。
「人生なんて、終わる瞬間は呆気ねぇんだな」
 誰に伝える訳でも無い呟き。それは音に乗せることは無く、口を動かすだけで零した自分の本音。そこに居る人間は誰一人楽しそうに笑うことは無い。ただ、それを呟いた自分だけが、僅かに口角を吊り上げ表情を作る。それが場に似つかわしくないものだと自覚はしても、それを止める事は出来ないと。心より喜びたい訳では無い。だがそうすることで、今まで感じていた重圧が面白いほど薄れてていく気がして心地は良かった。
 風に揺れる鯨幕。頭上に広がる空は憎たらしいほど澄んだ青で、緩やかに泳ぐ雲が少しずつ位置を変えていく。時代とともに形を変える死者を運ぶ乗り物は、昔のように見て直ぐ分かると言った豪勢なものでは無く、一見すると豪華な一般車両にしか見えない。しかし、いざその中に入ってみると、通常ならば人を乗せるはずの後部座席が取り外され、代わりに大きな箱を乗せるスペースと固定装置だけがあった。
 喪主である父親が助手席に乗り、その他の人間は手配されたマイクロバスで火葬場へと向かう。少しだけ早く鳴き始めた蝉の声がやけに煩く耳障りだ。
 ボタン一つで入れ物は途端に小さな欠片に早変わり。焼けて残った物はただの残り滓で、風に乗るようにして煙突から空に登る煙は、まるでその存在が天に還るかのように見えて滑稽で。そういった儀式が必要なのは、実は生きている方に対してで、居なくなった存在にとってはどちらでも良い事なのかも知れないと。煙が消えていく空を眺めながら成る程と一人頷く。その儀式が終われば一人、一人と参列者は姿を消していく。残されたのは写真立ての中で笑う印画紙と、与えられた戒名が刻まれる位牌。それらは確かに、この世界にその人が居たのだと言うことを存在を証明するための痕跡だ。それらの前には香炉に立てられた細い線香。姿泣き相手に届くようにとゆれる煙は存在こそ弱々しいのに、その芳香だけは何よりも主張が激しかった。
 固められた蝋が揺らめく炎の熱により透明な液体へと姿を変える。蝋燭の炎を移し燃えた線香は、少しずつその長さを変えていく。下へ、下へと燻る朱の上に被さる灰が重さに耐えられず塊になったところで落下し、敷き詰められた灰の中に埋もれてしまった。
 積み重なる封筒の数がその人の人望の厚さだと。故人を偲ぶことよりも、包まれた金額の方ばかり気になってしまうのは、灰になってしまった相手に対して思い入れが薄いせいだろう。どちらにせよ、その金額の総額を知ることも、それが己の懐に入る事もあり得ないのだから、芽生えた興味に蓋をして顔を背ける。
 コレで終わり。コレで全てが真っ新になった。


 あの時は、確かにそう思ったんだ。

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