籠の中の悪夢

03 

「    、ずっと一緒に居ようね」
 だが、彼女は壊れてしまった。そう、壊れてしまったのだ。
 それは兄という存在を失った事で感じた寂しさだけが原因なのかは判らない。ただ、関わりを持たないようにしていた自分に対して初めて彼女が連絡を寄越したときから、少しずつ何かがおかしい方向へと向かい始めてしまったことは確かである。
 それは気が付かないほど少しずつ、確実に経たれていく退路。徐々に浸食される違和感に気が付いた頃には、どこにも逃げられなくなってしまっていた。
 こちらが何度「兄はもう居ないんだ」と否定をしても、彼女がそれを受け入れることはない。それどころか彼女の兄の俺に対する想いはより一層強くなり、次第に大きな狂気へと姿を変えていく。やがてその狂った感情は歯止めが利かないほどの愛憎へと進化を遂げ、向けられる強い感情に抗う術を見つけられなかったせいで、気が付けば囚われの身に。そして今はただ、彼女が生きているという実感と兄という存在がまだそこにあるのだと言う事を証明する為だけに生かされていた。
「手が痛い」
 この体勢で一体何時間が経過したのか分からない。動かす事の出来ない身体が、椅子に座ることは苦痛だと悲鳴を上げ続けている。
「あのさ。トイレ行きたいんだけど」
 陶酔していた自分の世界。こちらが口を開くことで、その世界から一気に現実に引き戻された彼女は、とても不機嫌な表情を浮かべると俺の頬を思いっきり引っぱたいた。
「あ……」
 当たり所が悪かったのだろう。口内に滲む鉄の味。口の端に感じる鈍い痛みで分かるのは、引っかけられた爪で皮膚が傷つけられてしまったということ。生暖かく心地の悪い感触が顎を伝い、流れて落ちた白いシャツの上に紅い染みを付けた。
「っ……痛てぇなぁ……」
 後ろ手で縛られてるため血を拭うことも出来やしない。だが、目の前の相手は流れ落ちた紅に驚くと頭を抱えてブツブツと何か呟き始めてしまった。
「違う…違うの…違う……そうじゃないから……」
 ああ、まただ。今日もまた同じ事を繰り返す。
「    」
 目の前にはにっこりと笑う彼女の顔。
「ごめんね」
 そっと額に唇が触れる。
「傷つけてごめんなさい」
 なあ、    。何でアンタ死んじまったんだ?
「    、    」
 愛おしそうに彼女がその名を呼ぶ度に、自分の存在が曖昧に変わっていくのは辛いんだと。
「……んで……」
 だからこそ常にこう思ってしまう。

 俺が死んでしまった方が良かったんじゃ無いかって。
 そうでなければいっそのこと、アンタと一つの存在だったらどれほど良かっただろう。って。

「愛してるの、    」
 そうやって繰り返される愛の言葉。それはもう受け取ってくれる相手の居ないメッセージ。
「ずっと一緒に居ようね」
 言われた言葉に感情が籠もっているのかどうか判別は付きにくい。だからこそ、兄とよく似た自分に、消えてしまった面影を重ねて言葉を紡ぐこの女性のことが恐ろしくて仕方が無い。
「……違う……俺は……」
「    」

 なぁ、兄貴……
 俺は、アンタの事が大嫌いだよ、やっぱり。

 早くこの悪夢が終わることを願って、俺はそっと目を伏せた。

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