ホムンクルスの見た夢

22 

 手術が無事成功したと連絡を貰い、訪れたナースステーション。案内された集中治療室へと入れば、医療器具を付けられた人間がベッドに横たわっているのが目に止まる。記憶の中にあって、この世には存在しないはずの人間。その顔を見ていると、気持ちが悪くて仕方がなかった。
「ブレナン・マクハティさん?」
「はい」
 話しかけてきたのは手術を担当した医者なのだろう。この施設に来たときにスタッフに名前は告げていたので、それを呼ばれることには驚きはしない。しかし、この男の関係者だと勘違いされてしまったようで、他人だと思う事も無く、相手は話し始めてしまった。
 こちらの言葉を聞くこともなく淡々とされる説明。傷の具合から始まり、手術の内容、現在の容態、そしてこの後の入院予定についてなどを簡単に告げられる。
「あー……あの、スイマセンが俺……」
「患者さんは弟さんで宜しいかですか? 今は様子を見て、今後どうするかを判断しましょう。傷が頭部にありましたので、数日入院して貰ったほうが良いと思うのですが、大丈夫すよね?」
 会話は矢張り一方的だ。結局、最後まで自分がこの人間とは無関係だと言い出せず、仕方なしに身元引受人として書類にサインをしてしまった。
「医療費ってどんくらいかかるんだろう……」
 余計な出費の金額が見えずに、頭を抱えて唸り声を上げる。そう言えば保険証は……だなんて。そんな事を考えると目の前が真っ暗になり立ちくらみを覚えてしまった。
「……明日、また来ます。宜しくお願いします」
 もう考えるのは止めよう。そう気持ちを切り替えると、今度は気になってくるのが纏わり付く不快感だ。海水が中途半端に乾いたことで粘りを帯びた髪や皮膚が、とても気持ち悪くて仕方が無い。兎に角今は、帰って風呂に入りたい。身につけている衣服には、沢山の砂や助けた相手の血が付着して、随分と汚れててしまっていた。
「明日出来る事は明日にしよう」
 そう自分に言い聞かせると、ブレナンは怠い足を動かし病院を出る。いつの間にか空には小さくきらめく星と、柔らかな光を放つ月が昇っていた。
 翌日になり改めて病院を訪れると、患者の部屋を移動したとスタッフから告げられた。病院にお世話になることが滅多にないため、こんなに早く移動出来るものなのかと疑問に思いながらも、指示された部屋へと向かい足を動かす。廊下を歩きプレートを確認しながら辿り着いた個室の前。扉に手を掛けゆっくりと開くと、ふわりと柔らかな風が頬を掠めた。
「誰?」
 ベッドに腰掛けながら窓の外を眺めていた人物がゆっくりと振り返るこちらを見る。
「君は?」
 ブレナンに向かって投げられた問い。頭に包帯を巻いているその男の顔は、矢張り自分の記憶の中に有る人物ととても良く似ているもので。その男が、不思議そうに首を傾げながら名前は何と尋ねてきた。
「君はだあれ?」
「…………ブレナンだ」
 耳に届いた声も、とても懐かしいもので言葉が震えてしまう。
「あなたの名前は、ブレナンって言うんだ。良い名前だね」
 まるでその人がその場にいるかのような錯覚に、どう反応を返したら良いのか分からない。しかし、病室の中の男は静かにベッドから降りると、嬉しそうな足取りでブレナンに歩み寄ってきた。
「よろしく、ブレナン」
 差し出されたのは彼の右手。どうやらこの男は握手がしたいようだと言うことは辛うじて判った。それをどうすれば良いのか悩み、手を取ることを躊躇っていると、相手は焦れたように差し出した手を揺らし始めてしまう。
「ブレナン? どうしたの?」
「どうしたって……」
 顔を上げると薄い碧色の瞳が不安げに揺れている。
「友達になろうよ。ほら、握手」
 言い終わるのと同時に彼の左手がブレナンの右手を捉える。そのまま自分の手に握り込まれたブレナンの手は、堅く結ばれ強制的に握手を交わされてしまった。
「ねぇ、ブレナン」
 繋がれた手は意外と直ぐに離れていってしまう。そのことに安堵を覚えつつ、それを気取られないように注意を払いながら、ブレナンは男の方へと視線を向ける。
「ここはどこ? 僕は何でこんな所に居るんだろう? 知ってる?」
 子供のようにおどけた表情でそう問われ、何とか返せた言葉はこんなものだった。
「……記憶…喪失………なのか?」
 予想外の展開にどう反応を返せば良いのかが分からず動揺してしまう。
「きおくそーしつ? 知らない。僕が知ってるのは、いちかって言葉だけ」
 求めた答えが返ってこないことにがっかりしたのか、彼はゆっくりとベッドへ向かって歩き出す。
「……」
 何かがおかしいと感じる違和感。その正体は直ぐに分かった。
「足が……」
 ベッドへと向かう男の歩き方が不自然なのだ。片足を引き摺るようにして足を動かしている彼は、なんとかベッドの傍まで移動すると縁に手をかけゆっくりとそこに腰を下ろす。
「教えてよ。僕はどうしてこんな所にいるの? いちかって何だろう?」
 それは俺が聞きたい。情けないと笑われても良い。ブレナンは一瞬、本気でそう思い泣きそうになってしまった。
「ブレナン?」
 何から話せばいいのだろう。ブレナンは大きな溜息を吐くと、額に手を当て静かに目を伏せる。
「お前、名前は?」
「名前……」

「……つまり、彼には記憶が無かった……と言う事?」
「そう言う事さ。お陰で随分苦労したんだぜ」
 ブレナンがすっかり短くなってしまった煙草を灰皿に擦り付け火を消すと両肩を竦めて戯けてみせる。
「所々情報が抜け落ちてるから、必要最小限のことすら出来やしないことも更じゃなかった。一から常識を教えるって言うのは本当に骨が折れるな。まぁ、そのかいあってか、今では何とか普通に生活出来るレベルにまで回復はしたようだが……言動や行動が子供のままで正直困ってる」
 二人の視線の先には、大人しく本を読む男の姿がある。
「打ち所が悪かったんだろうなぁ。記憶だけじゃなく少し障害が残っちまってるみたいだし。色々と面倒臭いぜ、全く……」
 見た目では判らない程の微かな事だが、言われると彼の動きは随分と不自然だと一華にも感じられた。
「……私のせいね」
 願った通り命は助かった。だがその代償に無くしてしまった記憶と新しく増えてしまった身体の障害。結局は自分の選択した未来が良い方向に向かったのかどうかなんて、何一つ判らないままである。
「色々と苦労を掛けてしまったみたいね。ごめんなさい」
「済まないと思ってるんなら、アイツを入院させた時の医療費全額返してくれよ」
 ブレナンが冗談めいた口調でそう言う。
「判ったわ。後で口座を指定してくれる? ……多分、預金は幾らか残っていたはずだから払えるはずよ」
 それで少しでも自分の罪が軽くなるのなら、幾らでも金を出しましょうと。握りしめた拳が微かに震える。
「あー……と……別に気にしないでいいんだが……」
「ブレナン!」
 払わなくて良いと言おうとしたタイミングでネオが読んでいた本を勢いよく閉じた。
「あ?」
「他の本はもうないの? 此処に有るモノ、全部読んじゃったよ」
「あー……ねぇよ。残念ながら新しいのは買ってねぇ。諦めろ」
 そう言うと見るからにガッカリしたという態度でネオは肩を落とした。
「ちぇー……つまんないの」

 昔、同じ様なことをされたことがある。

 一華の記憶の中のネアンと目の前に居るネオが重なる。
「あの時も……同じ様にそんな態度で拗ねたんだったわね」
 気が付けば、無意識に席を立ってネオの方へと歩み寄っている自分が居て。
「何?」
「ネオ」
 足を揺らしながら頬を膨らませていた彼の傍にしゃがみ込み、一華はその顔を覗き込むようにして顔を上げる。
「また、会えたわね」
 そう言うと、彼は驚いた表情を見せ一華を真っ直ぐに見つめ返した。
「どういう事?」
「いいえ……良いわ。忘れてちょうだい」
 忘れてしまったままの方が幸せと言う事もあるだろう。
 彼にとって過去の記憶は、必ずしも幸福なモノだけとは限らない。
 ネアンという存在を捉えていた足枷はもう存在しないのだから。
 それならば、わざわざ枷を付け直す必要は無いはずである。
 一華はそう自分を納得させるとすっと立ち上がりブレナンの元へと戻ろうと足を動かす。
「待って」
 ほんの小さな力だったが、確かにネオの手が一華を引き留めようと動く。
「君はだあれ? 僕の事を知っているの?」
「私は……」
 純粋すぎる瞳が真っ直ぐに自分の姿を捉えるのが何よりも痛いと感じる。一華はその視線から逃れるように顔を逸らした後、絞り出すように小さな声でこう告げた。
「一華よ」
 一華の声はしっかりとネオの耳に届いた。腕を掴む手に無意識に力が籠もるのが衣服越しに伝わり手が汗ばむ。
「いち……か?」
「ええ」
 『いちか』という音を確かめるように何度か呟いた後、ネオは伏せていた顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「いちか! 僕の大好きな言葉と一緒だ!」
「え?」
 反射的にネオの方へと視線を向ければ、とても嬉しそうに微笑みながらネオは「一緒」とひたすら繰り返している。
「君、いちかって言うんだね! 僕の大好きな言葉と一緒の名前だ! ねぇ。君は知ってる? 僕、色んなものが無くなっちゃったけど、いちかって言葉だけは忘れなかったんだよ。それくらい大好きな言葉なんだ」
「…………そう……」
 忘れたと思っていた。忘れてしまった方が良いとすら思った。だが忘れられていた訳ではなかったようだ。
 昔自分に向けられたモノと全く同じ笑顔が、今自分へと確かに向けられている。心臓が苦しくて痛い。自然と涙が溢れ出し、頬を濡らして服に小さな染みを作る。
「どうしたの? 泣いてるの?」
 ネオの白い手が一華の頬に触れる。
「痛い? 怪我したの?」
「……ああ、そうね。此処が痛むようだわ」
 胸に手を当てて場所を示すと本当に心臓が軋んだ音を立てて痛みを訴えるような気がして来る。
「そうなんだ……早く良くなると良いね」
 そっとネオの手が一華の手に重なる。
「痛いのが無くなればいい。そうしたらいちかも楽しいでしょ?」
 白い肌に付いた細かい傷跡。それに無意識に触れる自分の指。
「いちか?」
「ごめんなさい……   ………」
 這わせていただけの掌を握り込むと、一華はその手に額を付けるようにして言葉を零した。
「許してくれだなんて言わないわ。それでも、償わせて欲しいの。あの時、貴方にしてあげられなかったこと、貴方に掛けてあげられなかった言葉、存在を受け入れあげることが出来なくて悪かったと思っているわ」
 随分と遠回りをしてしまったが、今、漸く兎が言った言葉の意味が理解出来た気がする。創り出してしまった事に対しての責任と、その命の重さを背負い正しく導いてやる事が自分に課せられた使命。それを放棄したことが罪で、欲しいと願ったモノを手に入れられなかったことが罰。
「ごめんね」
「……変なの。僕、別に怒ってなんかないのに」
 視界が大きくぶれる。気が付くと自分の身体はネアンの腕の中に抱き込まれる形で収まっていた。
「泣かないで。いちかが泣いて居るのを見ると、僕も悲しくなっちゃうよ? 大丈夫。怒ってない。だから、笑って欲しい」
 まるで泣き崩れる母親をあやす子供のような仕草でネオの手が一華の背を撫でる。
「涙はどこかに捨てちゃえ。笑った方がもっとずっと幸せになれるんだって、本には書いてあったから。だから、ね。いちか」

 笑って欲しい。

 ネオの手が一華から離れ消えてしまった温もり。再び向き合うように視線を合わせると、彼は自分の両頬を引っ張って笑顔を作ってみせた。

「本当にそうね」

 ホムンクルスは夢を見る。
 暗い現実の世界で夢を見る。
 いつかは光に満ちた幸せがあると信じて。
 その扉を開く鍵は、実はとても近い所にあったことに気付かなかったけれど。
 閉ざされた扉は、今確かに開かれた。
 其処から先に紡がれる話はまた別の物語で。
 その先の未来は誰にも判らない。
 ホムンクルスは本当の意味で手に入れたのだろう。
 欲しいと願っていたモノの形を。

 ホムンクルスは夢を見た。
 それは何時か訪れる、幸せな未来の光景だった。

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