モノトーン

09 

 言えなかった言葉が漸く言える。判っている。本当はアルジャンばかりが悪い訳じゃ無いと言う事を。待ち続けていた自分にも非がある。結果を恐れて行動を起こせなかったから今までこんな風に擦れ違ったまま、時間だけが流れていっていたこと。
「大好きだから……大好きだから、アルジャン……」
 あの恥ずかしい真っ紅な薔薇の海は切っ掛けにしか過ぎない。それはアルジャンが出した小さな勇気。それに気が付かなかったらどうするつもりだったのだろう、この人は。そう思いながらも、その不器用な思いに気付けたことに安堵を覚える。彼は勇気を出した。だからそれに対して自分も勇気を出さなければならない。頭で考える寄りも先に身体は行動を起こしている。ずっと伝えたかったけれど、伝えてはいけないと思っていた気持ちを彼に伝えるために。
「俺を要らないなんて言わないで………捨てないでよ、アルジャン……」
 戻りたい、貴方の元へ。それはずっと願い続けていた自分の本音。
 貴方の支えになりたいと。何時の間にかそんな風に思って生活を共にしていた。
 本当は少しだけ嬉しかった。アルジャンにハンディが有ることが。何故ならそれがある以上、彼は必ず誰かの助けを受けなければ、生活に不自由がでてしまうから。
 アルジャンの隣に自分が居る。極当たり前な事でも、その場所を失うと途端にそれが何よりも欲しくてかけがえのない物だったと言う事に気付かされた。
「なぁ、アルジャン……」
 涙で濡れた顔を上げてアルジャンの事を見上げる。
「もう……俺の事……嫌いになっちまった……?」
 その言葉に対しての答えを聞くのが恐かった。本当なら思いを伝えた所で、全力でこの場所から逃げ出したい。それでも彼が出した小さな勇気と同じだけの物を自分も持って前に進まなければならない時もある。レンは黙ってアルジャンの言葉を待つ。
「俺……は……」
 何か言葉にしなければ。そんな焦りはあるが上手く声を出す事が出来ない。アルジャンは目を伏せて口元を隠し、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「レンが戻ってきてくれる何て思わなかったっ……」
 ずっとずっと戻ってきて欲しいと。願わなかった日は無かったんだ。本当はいつだって君が傍に居て。手を伸ばせば触れられることをどれだけ渇望したか判らない。
「アルジャン……?」
「レンに傍に居て欲しいっ、レンが傍に居てくれないと……俺っ……」
 嗚呼、もう駄目だ。
 気持ちを閉じ込めていた小さな箱が音を立てて崩壊していく。
「レンと一緒に居たい! レンが傍に居て欲しい! レンだけ居てくれれば何も要らない! 本当はずっとレンと一緒に居たかった!!」
 何年も何年も。必死に抑えて誤魔化してきた自分の本当の気持ちが堰を切った様に溢れ出す。ただ一人へと真っ直ぐに向かうこの思いは、彼の為に買った深紅の薔薇のように激しくて、老婆が添えてくれたたった一本の白い薔薇の様に何処までも純粋で。
「もう一度……戻ってきてくれる? レン……」
 今度レンに「嫌だ」と言われたら、きっと辛くて死んでしまえるだろう。それでももうその言葉を伝えたことに後悔は感じられなかった。
「ばーか」
 レンの手が離れていく。それが拒絶なのかと勘違いし、アルジャンはその場に崩れ落ちる。
「言っただろう? 迎えに来て欲しかったって」
 そんなアルジャンを包み込む様に抱きしめたレンが甘えた子犬のように頭を擦り寄せる。
「俺はちゃんと言ったよ? アンタの元に戻りたいって。アンタさえ良いって言ってくれるのなら、俺はアンタの傍に居る。ずっと傍に居るよ、アルジャン」
「レンっ……レン、レン……」
 やっと彼に触れられる。伸ばした手がレンの背中に回り、しっかりと彼の身体を抱きしめた。
「バーカ。でも……俺も随分馬鹿なのか」
 それに応える様にレンもアルジャンの首に腕を絡め抱きつくと、とても嬉しそうに笑った。
「ただいま、アルジャン」
「……ああ、お帰り。レン」

 必要最小限の物を持って行動を起こせたことは奇跡だったのだろう。あれだけてんぱっていた状況でも、しっかり財布と携帯を持っていた自分に笑いが零れる。
「……うん。……そう」
 電話を掛けた相手は同室だった友人のボーカリスト。
「ゴメン。落ち着いたら戻るから」
 そう言って用件のみを伝えた電話を切ると、レンは顔を上げてアルジャンの方へと視線を移す。
「……今日だっけ? ライブ」
「うん」
 本当はそんな事どうだって良かった。メンバーは大事。今やっていることも楽しいと思える。でもそれ以上に自分にとって大切なものが目の前に有ることに比べれば、他の物なんて全て色褪せて見える。
「戻らなくて良いのか?」
 元はと言えばアルジャンのせい。アルジャンがやった悪戯がこの結果を引き起こしたのだ。
「戻って欲しいの? アルジャンは」
 自分から呼んだんだろう? そう意地悪な口調で言えば、彼は苦笑を浮かべながらゆっくりと頭を振り笑う。
「ずっと此処に居て欲しいよ。だって俺にはレンしか居ないもの」
 随分と広くなったガレージの中。彼の記憶の中にある黒の世界で描かれた売れなかった絵ですらもう何処にも存在していない。
「……これ……」
 しかしたった一つだけ。レンの記憶にもしっかりと残っている絵がイーゼルに立てかけられ置いて有った。
「ああ。それ」
 ソファに腰掛けたアルジャンが嬉しそうに笑う。
「売れなかった。いや、正直に言うと手放せなかった。手放したくなかったから」
「何故?」
 何故この絵に固執するのかレンはその理由を知らない。純粋に気になってそう問えば、恥ずかしそうに鼻の頭を掻いたアルジャンが視線を逸らしながら小さな声で呟いた。
「……だって……それは……レンが……」
「俺が?」
「レンが…初めて……色をくれた絵……だから……」
 そんな理由? 一瞬呆れた表情を作ったレンは、次第に顔が緩んでいくのを感じて慌てて顔を伏せる。
「レン?」
「……すっげぇ恥ずかしい奴……」
 視線だけを動かし絵を見ると、女性の胸の前にある一輪の深紅の薔薇。色の無い世界でたった一つだけ色を主張するそれは、嫌がらせと称して悪戯に自分が吹き込んだ変哲もない『クリムゾン』。
「それだけの理由でこれをずっと手元に置いてあったわけ?」
「そうだよ」
 昔見た柔らかい笑顔で微笑みながら、アルジャンはゆっくりと頷く。
「俺が色を入れたから?」
「そう」
 そう。全てはこの一枚の絵がきっかけ。
「アンタ馬鹿でしょ?」
 照れ隠しでそう言えば、アルジャンは困った様に笑いながら「仕方無いだろう」と答えた。
「……じゃあ、これ。完成させようか?」
「え?」
 あの時、完成させる必要は無いと筆を置いた未完成の絵。たった一筆だけ塗り残した黒に気付いて色を入れてくれるかと思って居たが、それはどうやら叶わなかったようだ。
「本当はこの絵。一カ所だけ紅を入れてないんだ」
「何処?」
 左下の小さな花びら。そこだけが未だに真っ黒に染まったまま。
「陰影の関係で判りにくいけど、この花びら」
 真っ黒に染まった花びらを指差した後、レンはパレットとテレピン油を用意し、草臥れたチューブからクリムゾンの絵の具を出して筆に絡める。

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