モノトーン

01 

 アルジャンの描く絵は何時だって白と黒。それ以外の色があったとしてもイカ墨色で色彩に欠ける。
 彼が名のない絵描きだったことは知っている。何故なら彼の絵には華やかさが無かったためだ。
 デッサン力はある。選ぶ被写体も悪くない。表現力も確かにあるのに、何故だか色だけが存在しないない。
 その理由を、弟であるレンは知っていた。逆に言えば、何故彼の絵に色がないのかを、彼だけしか知らない。
「レンー、助けて……気持ちが悪い」
 扉を開けて現れたアルジャンの手が真っ赤に染まっていた。
「一体どうしたんだよ?」
 嫌そうに顔を歪めながらレンがそう問いかける。
「うん。ナイフで切った」
 それに、特に慌てる様子もなくそう答えるアルジャンは、青白い顔をして笑うのみ。
「真っ黒いのが出てる」
「うん。見れば判る」
 動揺することなくレンは救急箱を取り出すと、アルジャンを椅子に座らせて傷の手当てを始めた。
「また派手に切ったね」
「うん」
 真っ白なガーゼは見る見る内に真っ赤に染まっていく。
「真っ黒」
「うん」
 アルジャンの手には赤があるのに、それを彼は黒と表現する。これが彼の絵に色の無い理由。そう。彼は全色盲。色の識別が出来ない人間だった。
 彼の目は一色覚で一つの色しか知覚が出来ない。彼の世界は常に白と黒。彼の世界に色は存在していない。だから彼には色が判らなかった。
 彼の描く絵に色がないのは、彼の世界に色が存在していないからだ。彼に色という概念が無く、それが必要だと認識していないためである。
 幼い頃からの事なのでレンはすっかり慣れてしまっていた。同じ見た目をした双子の兄と弟。兄の世界には色が無く、弟の世界には色が溢れている。始めの頃はその違いが分からず、兄に色々な色を見せてこれは何、あれは何と問うたが、その度に悲しそうな顔をして首を傾げる兄の態度から、それは聞いてはならないことなのだと理解したレンは、次第にそれ自体を口に出すことをしなくなった。兄の目が自分の目と異なる事を知ったのは、それからずっと後になってからのことだ。
 それを知って以来、アルジャンが色を白と黒で表現することにレンは黙って頷くようになった。例え其処に鮮やかな色彩が有ったとしても、それを何色だと表現することはなく黙って頷く。
 兄のことを可哀想だと思った事がないと言えば嘘にはなるが、それについてどうこう言うつもりは無い。そう言うものだと諦めても居たし、先天性のもので治療法が無いのだからどうする事も出来ないのだから。
 極稀に、彼の見て居る世界がどのような顔を持っているのかを知りたいと思う事は有った。それでもレンにはそれを知る術がない。朧気ながらに想像は出来る。モノクロームのフィルムのような世界だと思えば簡単だろう。しかしレンには色の概念が有る。今見て居る世界をモノクロームに変換するのは容易くない。結局は完全に理解してやることなど難しい。判らないことは判らないのが正常なのだから。
「痛い?」
 消毒液を染み込ませたガーゼで丁寧に傷口を拭う度、兄が小さく身を固めるのが判る。
「ちょっと」
「そう」
 兄の手から『黒』い色を取り除いていけば、其処には『白』い手と『黒』い切り傷の痕が残った。其処に『白』いガーゼを宛て『白』い包帯を巻いて丁寧に固定していく。『黒』かった兄の手は『白』い色へと元通りと言う訳だ。
「終わったよ」
「ん」
 『黒』い色が無くなったことにアルジャンは嬉しそうに目を細める。
「ありがと」
「…………」
 頬に触れる指先の熱。何だってこの人は、こんなにもスキンシップが好きなのだろうと。使った道具を箱の中に戻しながら、レンは小さく溜息を吐いた。
「また、絵を描きに戻るのか?」
 そう聞けば、アルジャンは頷いて「戻るよ」とだけ答える。
「レンも来る?」
 そう聞かれたが、レンはそれにゆっくりと首を振ることで否定を示した。
「そろそろ夕飯の支度しないと」
「そう?」
 売れない絵描きとは言え、趣味に没頭する人間は周りが見えなくなることが多々有る。誰かが生活を管理してやらなければ、時間を忘れて絵を描き続けるてしまうこの人は、きっと簡単に死んでしまうのだろう。手先は器用だが絵以外のことには無頓着すぎてどうしようもない。
「それじゃあ、夕飯を期待してる」
 そう言ってアルジャンは軽く手を振ると部屋を出て行く。
「勝手にしてろ」
 元々料理なんて得意じゃなかった。炊事も洗濯も、家事全般は不得意だったはずのレンが、今じゃすっかり立派な主夫である。たった一人の人間の面倒を見るために無意識に培った経験により覚えたスキル。
「ははっ、バッカみてぇ……」
 この生活には自由がない。そう感じた途端、自然と零れる渇いた笑い。
「飯、作らなきゃなぁ」
 そう言って救急箱を片付けると、レンはキッチンに立ち冷蔵庫を空ける。
 買い置きの食材なんて、素材に拘りを持って選んだことは無い。食べられれば問題は無いはずだと割り切った調理法は大雑把な物で、鍋の中に適当に切った野菜を放り込み火に掛ける。余り料理に詳しくないため簡単に作れるものが主なレパートリー。それでも無頓着な兄よりは食える物は作れるようになったのは、日々の努力の賜物だろう。今日の献立は手っ取り早くポトフにしようと決め、見た目は気にせずに下ごしらえを始めた材料の殆どは、今こうやって水を張って火に掛けられた鍋の中で静かに揺られていた。開いた時間にサラダの用意をし、それが終わると椅子を手繰り寄せ、底に腰掛けてから買ってあった音楽雑誌の頁を捲る。
「あっ。このアーティスト、新しいアルバム出るんだ」
 久しぶりに見た自分の好きなアーティストの名前。
「そう言やぁ最近弾いてないな……弦……」
 足でリズムを取りながらピックを動かす動作をとる。メロディを口ずさみパントマイムでギターを操る真似事をした後両手を開いた頁の上に置いて天井を見つめた。
「……弾きたてぇや、ギター……」
 プロになるつもりはなかったが、それでもギターを操る事は大好きだった。学生の頃ライブハウスで知り合った奴と組んだバンド。インディーズだがそこそこ名は知られていて、割と人気があったような気がする。
「アイツ等元気かな?」
 両親と妹が事故で亡くなったという知らせを受け、葬式や事務処理、家の片付けをするなどの理由で戻らないといけなくなった実家。其処で待って居たのは売れない画家の兄という存在。当初は適当に事が片付いたらみんなの元に戻ろうと思って居たレンだったが、事情は思ったよりも複雑で。兄を一人にしておけないと判ると同時に戻る望みは捨てた方が良いと判断した彼は、苦渋の選択でバンドの仲間に連絡を入れた。務めていたバイト先にも辞表を出し、実家に戻って就職先を探す。今じゃすっかりサラリーマン。安定した収入があるのは非常に嬉しいが、生活に潤いがあるかと言えばそうでもない。少なくとも、自分のやりたい事をやっていた頃に比べると、心の充実度は確実に減っていた。
「……アルジャンは良いよな」
 好きなことが出来て。何度となく呟き掛けて呑み込んだ言葉。
「……判ってるさ。あの人には他の選択肢が無いって事くらい」
 ハンディキャップがある以上、普通の職に就くのはリスクが高い。しかも見て直ぐに判るようなハンディじゃない分質が悪い。だから兄に普通を求めても仕方のないことはレンだって理解はしている。
「それでも……」
 自分にもやりたい事があったんだ。それをもう手に入れることが出来ないと思うと悔しくて仕方無かった。
 何時の間にか煮立った鍋の中で小さな音が響く。
「あっ……」
 開いていた雑誌を閉じるとレンは急いで鍋の中に視線を落とす。夕飯が出来上がるまで、まだ暫く時間は掛かりそうだった。

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