モノトーン

02 

「……ごめんな、レン」
 扉をそっと締めた後、アルジャンは小さく呟く。
「お前の事、縛り付けててゴメン」
 本当は知っていた。レンにも叶えたいと思って居る夢があったこと。その可能性を掴むことを諦めさせたのは自分という存在。
「本当は気付いているんだ」
 自分の眼が普通の人間と違うせいで、生活に支障を来していること。それによって普通の職に就けず安定した収入が得られないこと。誰かに迷惑を掛けないように生きていくことは難しい。せめて一色だけの色が見れないというハンディだったらレンに頼ることなく自分で生活していけただろう。だが、どんな運命の悪戯だろうか。自分の世界には色が無く、完全に黒・灰・白の三つでしか映像を知覚出来ない。
「手放して、自由にしてあげるべきだと言うことは判っているんだ」
 手当てして貰った真っ白な包帯の巻かれた手をゆっくりと撫でる。
「判ってるんだよ、俺だって……」
 それでも……
 こうやって家族が手の届く場所に有ることが何よりも嬉しいと感じているのは事実。心の何処かでは自分の負ったハンディに感謝している所もあるのは否定出来ない。
「お前がさ、戻ってきてくれて嬉しいと感じているのは事実なんだ」
 閉ざされた扉の向こう。黒と灰の木目にそっと手を這わせてアルジャンは呟く。
「お前が居てくれて良かった。お前だけでも俺の傍に居てくれて良かった……と」
 今は未だ、その手を離す覚悟が出来ない。憎いと思われても構わない。もう少しだけその手に縋り付かせて欲しい。そう思いそっと目を伏せる。
「色があれば……」
 彼を自由にしてあげる事が出来た。自分の絵にも鮮やかな色彩を持たせることが出来た。こうやって迷惑を掛けることなく、自分の力で生きていくことも可能だっただろう。そして、色があれば……
「お前がどんな色をしているのか判る事も出来たのに……」
 本当は誰も知らない。身近に居る弟ですら知らないアルジャンの心。
 彼が絵描きになりたかった理由は、たった一枚の絵が描きたかったからだ。
 真っ白なカンバスに描き出したかった一枚の絵。それは彼の『家族』の絵。彼の中の家族という時間を、カンバスの中に閉じ込めたかった。もし一人になることがあっても、その絵があれば頑張れる様な気がして。
 しかし、彼はその絵を未だに描くことが出来ない。他の被写体と違ってその絵に色を持たせてみたいと願ってしまったから。彼の判らない色の世界にある彼の家族が見てみたい。それでも彼にとってはどんな絵の具も白と黒。違いがないのだ。判らないのだから。鮮やかな色を認識出来ない以上、無意識に選んでしまうのは使い慣れた白と黒。色を持った家族をカンバスに描きたいと願いながら、色を吹き込むことの出来ない彼は未だにそのカンバスに家族の色を入れることが出来ずにいた。
「何時まで傍に居てくれるんだろう」
 込み上げてくる思いに胸が詰まる。
「なぁ、レン……お前は何時まで、俺の傍に居てくれる?」
 早く次の扉を開かなければ。きっと互いに辛い思いをするだけだと。判っているからこそ苦しいと感じる。
「レン……」
 消え入りそうなほどか細い声で扉の向こうにいる弟の名前を呼んだ後、アルジャンはそっと涙を拭いアトリエ代わりに使っているガレージを改造した部屋へと戻っていった。

 あれから数日後の事だ。
 週末がやってきた。日曜日。漸く訪れた休日にレンは大きく背を伸ばす。
「アルジャン?」
 まだ起きてこない兄に一声掛けてから買い物に行こうと、滅多に近付くことのないガレージへと足を踏み入れる。
「……アルジャン?」
 入り口に立ち兄の名を呼ぶが返事はない。何処にいるのだろうと視線を巡らせると、部屋の隅に置いてあった古ぼけたソファの上で、小さな寝息を立てて寝ていた。
「……ったく……」
 風邪引いちまうだろう? 本当にどこまでも絵以外のことに無頓着な兄は、絵の具の付いた薄手のシャツと黒のスラックスを履いただけの格好で意識を手放している。寝室に戻り毛布を一枚出してくると、それをそっと兄の身体に掛けてやり、レンは呆れた様に彼の姿を見下ろした。
「ばーか」
 書き置きでも残して食材や日用品を買いに出ようと考え直し、適当な場所にメモ帳がないかを探しているところで目に付いたのはイーゼルに立てかけられた一つのカンバス。数日前からこのガレージに通っていたモデルの姿が其処に在る。
「……薔薇?」
 彼女の手には一輪の薔薇。
「……黒薔薇だなんて見た目が悪いな」
 放置された絵筆とパレット。使われることのない黒以外の色を取り、空いた部分に色を落とす。筆に油を軽く浸した後、パレットに出した新しい色を取り黒の薔薇の上からその鮮やかな色を塗り足してみた。
「アンバランス」
 酷くアンバランスで滑稽。その色が他の色の中に溶け込まず、しかも全体の中心に位置するせいでやたらとその存在を主張する。
「いい気味」
 調子に乗ってどんどん紅を塗り重ねる。色を混ぜ、深みを持たせ、綺麗に形を整えて。茎の部分は緑を加え、そこだけ目立つように調整を重ねる。
「……ん……レン?」
 どれくらい熱中していたのだろう。ソファの上でアルジャンが小さく身動いだ。
「……レン?」
「ああ。起きた?」
 あと一筆加えればこの真っ紅な薔薇は完成だ。だがそれを最後まで仕上げることは止めておく。
「……俺の…絵……」
「ん」
 一度大きく欠伸をした後、ゆっくりと身を起こしたアルジャンは眼を擦りながら立ち上がりレンの方へと近付いた。
「何かした?」
 二色の色しか映さないアルジャンの瞳では、レンが自分の絵に何をしたのか一瞬では理解が出来なかった。
「自分で考えてみれば?」
 パレットを机の上に置くとレンは意地悪く笑う。
「……薔薇の濃度が変わってる…?」
 記憶の中の薔薇と濃淡が違うことに気が付きアルジャンは顔を顰めた。
「ご名答」
 レンの乾いた拍手がガレージ内に響く。
「色を落としたのか?」
「違うよ。色を変えたんだ」
「何故そんなことを……」
 そう言って睨むと、レンは面倒臭そうに頭を掻いた後肩を竦めてこう言う。
「黒薔薇なんて良い印象に見えねぇもん。黒薔薇の花言葉は多分嫉妬とかそんなのだぜ? 女性が持つのには相応しくねぇよ」
 花言葉なんて本当はそんなに詳しくはない。それを知っていたのは以前付き合っていた女性に教えて貰ったことがあったからだ。
『勝手なことを……』
 そう言おうとしてアルジャンは口を噤む。変わりに別の言葉をレンへと投げた。
「これは何色? 今、彼女は何色の薔薇を持って居るんだ?」
 するとレンは一言だけ答える。
「紅」
 色を紅に変えるとどの様な印象に変わるのだろう? その変化が判らないアルジャンは困ったように眉を下げる。
「レンから見てこの絵はどんな風に変わった?」
 自分では判らない以上人からその印象を教えて貰わなければこの絵がどう変化したのか理解できない。切実に教えて欲しいと願うアルジャンにレンは暫く考えた振りをした後、背を向けてひらひら手を振り部屋を出ていこうとする。
「レン!」
 悲痛な叫びに近い声が背後から響いてきた。
「モデルの姉ちゃんにでも聞いてみたらいいじゃん。俺、買い物に行ってくるから。飯は冷蔵庫の中にあるから適当に温めて食べてよ。じゃあね」
 未だ背後でアルジャンが何か言い続けていたが、それに気付かぬ振りをしてレンはガレージの扉を閉める。
「……これくらいの嫌がらせくらい、しても良いじゃねぇか……」
 あんな表情を浮かべて欲しかった訳じゃない。ただ、純粋に黒い薔薇よりは紅の方が見栄えが良いと思ったから色を足しただけだ。それがアルジャンに対してどのような効果をもたらすなんて考えもしなかった。あんな風に傷ついた顔をさせたかった訳ではなかったが、もう起こしてしまった行動を無かったことにすることは出来ないだろう。
「やめやめ! 考えたら気分が悪くなる」
 今頃湧いて出た罪悪感を吹っ切るように頭を振ると、レンはポケットに突っ込んだ車のキーを取り出しホルダーの金具を指に掛けて回す。鍵と金属部分が触れ合い小さな音が響く。気を紛らわせるように吹いた口笛。そのまま玄関から表に出、キーレスリモコンでロックを外すと車内に乗り込みエンジンを掛ける。
 外から鳴り響く車のエンジン音。それが遠ざかっていくのを耳にしながら、アルジャンは色の変わった絵のあるカンバスをぼんやりと眺めた。
「……あか……」
 未だ乾かない油絵の具。それに触れるわけにもいかずジェスチャだけで撫でる振りをする。
「教えてくれても良いじゃないか」
 濃淡が変わっている為それがレンの言った通り眠る前と今とでは変化していることは判る。
「教えてくれても……」
 しかし、判るのは色の濃さ…色調だけ。黒から紅に変えたと言われても、アルジャンの目に映る色は矢張りモノトーンでレンの言葉が本当なのかどうかを確かめる術がない。
「………見えないんだ……」
 瞳を濡らす涙。
「俺には見えないんだよ……」
 握りしめた拳が痛みを訴える。
「見えないんだよ……畜生っっ……」
 色を足したことによって、この絵はどう変化したのだろう?
 ねぇ、紅い薔薇の花言葉を知ってる?
 彼女はその花を持ち微笑む。彼女の手に宿る紅い色。それが相手に訴える思いは一体何? 教えてくれよ、レン……。
 だが幾ら願っても、買い物へと出掛けてしまった弟から返事を貰えることは無かった。

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