モノトーン

03 

 モデルの女性がやってきたのはそれから二時間ほど経った頃だった。
「お早う御座います、先生……」
 弟は未だ帰ってこない。手を加えられてしまった絵をどうして良いか分からず呆然とカンバスの前に座り込み呆けていると、突然彼女から肩を叩かれた。
「あれ? 先生、この色……」
 驚いて振り返ると、モデルをしてくれている彼女はとても驚いた表情を浮かべながらカンバスを見ていた。
「ああ、これ?」
「どうしたんですか? 昨日と色が変わっていますけれども」
 矢張りレンは嘘を言っている訳ではなかったようだ。彼女の反応を見る限りそれが真実だと言うことが嫌と言うほど判った。
「何色に見えるかな?」
 手を加えられた薔薇の部分を指差しながら笑えば、彼女は不思議そうに首を傾げた後「紅ですよね? 真っ紅な薔薇」と答える。
「先生?」
「俺にはね、この色が見えないんだよ」
 それは彼女も知っていた。だから一番始めにその色をカンバスに見た時酷く驚いた表情を浮かべたのだろう。
「見えないのですか? こんなにはっきりと紅い色を主張しているのに」
「残念ながら濃淡が変わったくらいにしか認識が出来ない。これはね、俺が寝ている間に弟が勝手にやったことなんだよね」
 困ったな。そう言ってアルジャンは頭を掻いた。
「ねぇ、この絵は君から見てどう見えるかな?」
 弟が言った。『モデルの女性にでも聞いてみろ』と。彼女は暫く考えた後微笑んでこう言う。
「こっちの方が私は好きです。モノトーンの中で薔薇だけが紅い色を放っているので、より一層紅が際だって目に付きますし。それに」
「それに?」
「黒い薔薇よりは紅い薔薇の方が私は好きですから」
「そうか」
 レンがやった悪戯。自分には何が変わったのかはっきりとは判らないが、彼女の反応を見ている限りではそれは悪い方の結果にはならなかったことが判る。
「それじゃあ、このままにしておこうかな」
「え?」
 彼女は目を見開いてアルジャンを見る。
「先生……でも、それじゃあ……」
「折角レンが色を入れてくれたんだ。俺の世界にはない色を。だから失いたくはないんだよ」
 自分の絵に手を加えられたのは悔しい。でも、同じくらい嬉しい。そして、羨ましい。
「君にも気に入って貰えたみたいだから、わざわざ黒と白で塗り替える必要もないだろう?」
「でも……」
「良いんだ」
 自分には表現出来ない世界がある。自分には表せない色がある。それが一つ手に入ったことが嬉しいと感じている。
「良いんだ。良いんだよ」
 レンがくれたたった一つの色。彼女が認めてくれたことによりそれを素直に受け入れることが出来た。
「そうだ」
 ゆっくりと席を立つアルジャンが机の上に散らばった絵の具のチューブを手に取り彼女の前に立つ。
「申し訳ないんだけれども、教えてくれるかな?」
「何をですか?」
「この絵の薔薇の部分に使われている絵の具の名前。君なら色が見分けられるだろう? 俺には色が判らないから、せめて名前だけでも覚えておきたいんだ」
 『あか』と言っても実に様々だ。細かい色を上げるとキリがない。微妙に色が変化しただけでそれは途端に色が変わってしまう。彼女はキャンバスとチューブを見比べて幾つかの色をピックアップする。「レッド」「ダークレッド」「カーマイン」「マゼンタ」「クリムゾン」「ヴァーミリオン」……。幾つか選んだチューブの中から一つずつ色を排除して残ったチューブはたった一つ。
「多分、これだと思います」
 そう言って差し出されたチューブのラベルには「クリムゾン」と標記されていた。
「そうか。有難う」

 その後、特に何も変わることが無く数ヶ月が過ぎた。
 あの絵があの後どうなったのかなんてレンは知らない。絵に悪戯をしたことを咎められることもなく、毎日が何時も通り淡々と進んでいく。
「そうだ、レン」
 二人きりの食卓。唐突に兄から話しかけられレンは視線だけを動かしアルジャンの方を見る。
「レンはやりたいこととか無いのか?」
 そう聞いてくるアルジャンの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
 正直「何を今更」と思った。やりたいことがない訳じゃない。それを諦めさせたのは言うまでもない、目の前に座る兄という存在だ。自分が好きなことを選べば目の前にいる男が生活に困る。そんなことは考えなくても判っている。始めからそうだったじゃないか。希望なんて持たない方が良い。裏切られた時に悔しい思いをするのは結局自分自身なのだから。
「別に。特にないよ」
 勿論それは嘘。でもそれを悟られないようにと自分の心を偽って呆気なく答える。
「嘘だな」
「何で!?」
 珍しく食って掛かるアルジャンに、レンは思わず声を荒げて席を立った。
「やっぱり嘘だった」
 パスタを絡ませていたフォークを持ち上げながらアルジャンが笑う。
「………嵌めたな?」
「ご自由に解釈をどうぞ」
 再び皿の中に戻されたフォーク。くるくると円を描きながら絡まっていくのは少し芯の残るボロネーゼ。
「本当はやりたいことを我慢して居るんだろう?」
 兄の挑発に乗ってしまった。もうこれ以上否定し続けたとしても、目の前に座る男は納得してはくれないだろう。
「…………ああ」
 細く息を吐きながらレンはゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「……音楽、だっけ?」
「そう」
 メジャーじゃなくても良い。だから偶には楽器に触れたい。我が儘が通るのなら、昔組んだ仲間ともう一度音を交わしたい。それがレンの本音。
「ギターだったっけ? お前がやっているの」
「そうだよ」
 レンが偶に自室でコードを見ながら音の鳴らないギターを弾いているのを知っているアルジャンは、少しだけ寂しそうに笑う。
「持ち歌はあるのか?」
 珍しく出た話題にレンは驚く。
「何で?」
「いや、何となく。興味が湧いたから」
 主にコピーバンドだったから残念ながら持ち歌は無い。そう答えたらアルジャンは柔らかく笑いながらそうかと答えた。
「なぁ、レン」
 汗を掻いたグラス。その中で揺れる氷の浮いた透明な水。それに手を掛けたアルジャンがゆっくりとグラスを持ち上げる。一度それで喉を潤した後、小さく深呼吸をした後でアルジャンは思っていた言葉を口に出した。
「戻りたいか? みんなの元に」
 この言葉を言うのにどれ程勇気を振り絞らなければならないかとずっと考え続けていた。本当ならば今だって言うのを避けて逃げたいとも思っている。だが、何時かは言わなければならない。何時までも彼を籠の中に閉じこめた囚われの鳥にしておく訳にはいかないから。
「なん……で……急に……」
 唐突に切り出された話の意図が分からずレンは軽く混乱する。
「何でって、もうそろそろ良いかな? って思ったから」
 そろそろ良いかな? この言葉に含まれる意味に嫌な予感が頭を過ぎった。
「一寸待ってよ。それって一体どういう…」
「もう良いよ、レン。俺は一人で大丈夫だから。もう良いんだよ、レン」
 小さな音を立てて置かれるフォーク。
「もう良いんだ。自由になっても」
 目の前が真っ暗になっていく。レンの持ったフォークが、音を立てて皿の上へ落ちた。
 一体何を言われたのか咄嗟には理解出来なかった。今兄は何て言った? 「もう良い」。そう言ったのか?
「……んだよ……それ……」
 頭を抱えてレンは狼狽える。
「……そんな……ん……ずいぶん……かって……」
「判っている。でも、レンだって随分我慢してたんだろう? 俺の面倒を見るの、本当は嫌だったんだろう? 判ってるから」
 顔を上げると相変わらずいつもの笑顔でアルジャンが此方を見ている。何でそんなに冷静にそんなことを言えるんだろう。本気で判らなくなりレンは緩く頭を振った。
「そんな……いきなり……いわれてもっ……」
「いきなりじゃない。本当はずっと前から考えていたことなんだ」
 アルジャンにそう言われた瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走ったような気がした。
 自分の存在を否定された気がして泣きたくなる。同時に殺したいほど憎いとも思った。
「アンタが俺を必要としたんだ」
 そう。兄には自分の存在が必要だと。レンは信じて疑わなかった。
「そうだね。俺がレンを必要としていた。それについては否定はしないよ」
 レンの言葉にアルジャンは深く頷く。
「だから俺はアンタの為に此処に戻った」
「うん」
 本当は今だって必要としている。そう叫びたかったけれども、それは必死に我慢する。それを言ってしまったら何もかも無駄になる。それだけは何としてでも避けたかったから。
「それなのに、今度は俺のことは必要ないから自由になれって…そう言いたいのか?」
「……そうだよ」
「っっ!!」
 レンが息を呑んだのが判る。
「そうだよ、レン。もう俺にはお前は必要ないんだ。適当に嫁でも捜して結婚して、それなりに幸せな家庭を築いて上手くやっていくから、だから…」
 そこまで言った瞬間、アルジャンの左頬に衝撃が伝わり痛みが走った。
「巫山戯んな!! なんだよ! それ!!」
 荒げた怒号に含まれる泣き声。
「もう俺のことが要らないって、何なんだよ! それ!! アンタの都合で引き留められてこっちで就職先も決めたのに、何だってそんなことを言う……」
「もう必要ないから。そうやって俺のことを優先してくれなくても良い。もっと自分の好きなことに目を向けて、自分を優先に生きてくれればいいから。だから、レン。もう俺にお前は要らないよ。必要ないんだ」
 一方的に言葉を遮り再び浮かべた笑顔。目の前で大きく肩を震わせるレンの目に堪っている涙に気付かぬ振りをして必死に笑顔で素顔を隠す。
「アルジャンっ!」
「悪いけど出ていってくれないかな? そうじゃないと、彼女も呼べやしない」
 レンの表情がより一層崩れた事に、もう一度殴られるんじゃないかと身構えたがその心配は杞憂に終わったようだ。暫く睨み合いが続き、やがてレンが静かに俯くと絞り出すように一言だけ言葉を紡いだ。
「……判ったよ」
 嗚呼、是で。互いに後戻りは出来なくなった。
「アンタがそう望むんなら、今すぐにでも出て行ってやるよ! 勝手にくたばれ! クソ兄貴!!」
 投げられた言葉がストレートに心に突き刺さる。
「じゃあなっ!!」
 大きな足音を立ててレンが部屋を出ていく。
「………っっ……」
 まだだ。まだ泣いてはいけない。アルジャンは必死に拳を握りしめ歯を食いしばった。
 まだだ……まだ……泣いては……

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